いい気分のしない色をした錠剤以外に、クラブで買っているものがある。
包帯や軟膏などの止血セットだ。特に軟膏は、どういった調合をしているのか、傷口に塗ると止血はもちろんのこと、傷の治りも早かった。ロジェ曰く、それ専用に作られているらしい。
ある日、三度目になる備品調達の時に、ロジェにこう話しかけられた。
『いつもどこから血を吸わせてるの、先生』
『……首や腕だが』
言うと、ふっとロジェが笑った。いつもの彼の、穏やかな、その癖人を食ったような笑みだった。
『まぁ、定番だな』
『……他に適当な部位があるとでも?』
『ううん、適当と言うべきかは分からないけど。でも、血管が太い場所なら教えられる』
そう言って彼が指したのは、己の足の付け根であった。
◆
「ケイ」
帰宅して、二時間ほどが経った頃であった。
ちょうど風呂を出て、なにか飲みながら本でも読もうかと思っていた時である。ずっとベッドルームでまどろんでいたシリルが、書斎にいるぼくを呼んだ。
「……少し、待って」
読んでいた雑誌を閉じて、小さな書斎を出る。隣のベッドルームの戸は開け放たれたままで、その前で、シリルが所在なさげに突っ立っていた。
一ヶ月ほど暮らして分かったことだが、こうしてシリルが自分を呼ぶ時は、彼が空腹の時だ。
ベッドサイドに置きっぱなしにしている紙袋の中身――小さな軟膏壷と包帯を出して、ベッドに乗る。
「そうだ、シリル。血を吸うのに、血管が太い場所の方が吸いやすいとかあるのか?」
いつものようにパジャマのボタンを外しかけたところで、あの日の会話を思い出したのだ。
問いかけると、シリルは少し黙った後、首を横に振ってこう言った。
「分からない。試したこと、ないから」
「……それも、そうか」
ならば、試してみる価値はあるのではないか。
襟にかけていた手を下ろし、ズボンを脱ぐ。普段とは違う流れを不思議そうに見ているシリルに、ぼくは意を決して言葉を紡ぐ。
「シリル。その、太腿の付け根から吸ってみないか」
「……足?」
「そこに太い血管が走っていると、この間ロジェから聞いたんだ」
「別に、吸えるならどこでも」
いいよ、と続けて、緩く立てたぼくの片膝に、ひやりとした手が乗った。
下着から伸びる太腿を、シリルは暫しじっと眺めたかと思うと、その冷たい手でもって、付け根の部分を掴むように触れてきた。
太腿の肉が引っ張られる。それで血管の位置を確認していたのだろう、じっと足の筋を見ていたシリルが、ああ、と納得したように声を漏らした。
「……吸えそう」
「本当か? なら、よかった」
あまり首ばかり吸わせていると、傷が治る途中に内出血が起きて痛くなるのだ。それに、襟から包帯が見えてしまわないかと不安にもなる。少しずつ場所を変えて吸ってもらった方が、ぼくとしても助かるのだ。
――それに。
足から吸わないかと提案したのには、もう一つ理由があった。なんとも低俗で、直情的な、ぼくのくだらない望み。
シリルの顔が、足に近づく。
部位に限らず、いつも最初にシリルはまるで消毒するかのように、ねっとりとこれから吸う部分に舌を這わせる。
ぴんと張った筋に、ぺとりと舌が落ちる。ゆっくりと、ねぶるように舌が動くのを見下ろしながら、ぼくは恐怖でも緊張でもない感情に背筋を震わせていた。
シリルには絶対に言えない、くだらない欲。被虐心混じりの、ぼくのどうしようもない色欲。
ぼくは、こうして性器の近くに顔を埋める彼を見ながら血を吸われたかったのだ。
「それじゃあ、食べるね」
いつものようにそう言って、シリルが足に噛みつく。少しずつ慣れてきてはいたが、それでも肉を裂く痛みに歯を食いしばりながら、ぼくは同時に、ひどく興奮していた。
ぼくはなんてひどい、汚いやつなのだろう。
この、ただぼくの血が啜りたいだけの美しい生き物を、ぼくの醜い欲を使うために使っている。
こく、こく、と彼の喉が嚥下するのが、触れる足越しに感じられる。暫くしたのちに満足そうに喉を鳴らして顔を上げると、シリルは止血のためにぐっと太腿を痛むほど押さえつけてきた。
「う」
「あ」
うめき声を上げたのがぼくで、はっとしたように声を出したのがシリルである。
血管が太いからだろうか、押さえた太腿から、つっと一筋の血が足の間の方へ伝う。下着が血で汚れてしまうなぁ、なんて思ったのは一瞬で、声を出した次の瞬間、そこに濡れた感触が走っていた。
「う、あっ……、シリル!」
ぺちゃりと湿る感覚は、血だけではない。下着が伸びるのも構わず、彼が足と布地の隙間から、そこへ舌を差し入れたのだ。
ちょうど陰嚢の横を濡らした血を、嫌になるほど丁寧にシリルの舌が舐め取っていく。それまでの光景や痛みに興奮しつつあった性器が、その刺激に素直に反応を返した。
「……あ」
血が集まりつつあるそこに、布越しにシリルの頬が触れる。そのすべらかな感触にまたひくりと腰が痙攣してしまって、ぼくは慌てて謝罪の言葉を口にしていた。
「す、すまな……うあっ」
すり、と下着越しにシリルの頬が動く。ちらりと紺碧色をした瞳がぼくを一瞥して、それからずるりと一息に下着を下ろされた。
やわらかな唇が、触れていた。
先端を軽くくわえるように、唇が性器を挟み込んでいる。かと思えばそのままずるる、と深く飲み込まれて、思わず腰が浮ついた。
シリルにこんなことをしてもらうのは、初めてのことだった。
「……本当に、興奮するんだ。血、吸われてて」
飲み込まれた時と同じ速さで唇が離れ、指先で亀頭を弄ばれる。愛撫の合間につぶやかれた言葉は、彼としては事実を述べているだけなのだろうが、ぼくの耳には少し呆れているように響いた。
「だって、きみが……ひ」
ぺちゃぺちゃと先端を濡らしている先走りを指に絡めて、シリルがぎゅっときつく絞るように性器を扱き上げた。
「……なに?」
「なん、でも、な……、もう、離しなさいっ……」
「嫌だ」
ここまで明らかな拒否をするなんて、彼にしては珍しい。
嫌だ、と言いながらも、シリルはそこから手を離し、シーツで軽く指を拭うと、ベッド脇に置いていた軟膏へ手を伸ばした。
蓋を開け、べったりと指で掬ったかと思うと、その手が彼の背後へ回った。
ぬちゃり、と濡れた音がする。シリルが、苦痛を堪えるように僅かに眉間に皺を作った。
シリルは、欲などまったく湧かないような顔をしておきながら、人並みの欲を持ち合わせている、らしい。そうでなければ、こんな風に自分で後ろを慣らすものか。
(……ああ)
いやらしいなぁ、と血が上ってぼうっとする頭で、思う。人形みたいな見た目の癖に、このルヴナンが、欲が高ぶったらぼくのものを入れたいと思うのか。
ぼくの足の間に身を屈めているせいで、シリルの手がどうやって動いているのかはよく見えなかった。けれども、指が増やしているのだろう、時たまひくひくと眉根がうごめいて、いつしか彼のものもすっかりと勃ち上がってシーツに透明な雫を垂らしていた。
その光景のあまりの淫靡さに、ぼくはすっかり言葉を失っていた。その軟膏はクラブから買っているそこそこ値の張るものであって、潤滑剤は戸棚の中に入っているのだが、ぼくも彼も、そんな口を挟めるような状態ではなかった。
「ん……」
ぺちゃ、と音がして、ずっと背の後ろに回っていたシリルの手が、だらりと前に落ちた。
その腕を取って引き寄せると、呼応するようにシリルが腰を持ち上げる。もぞもぞとシーツの上でシリルが膝を擦らせながら位置を調整すると、ぬちゃりと濡れるそこが性器の先に触れた。
「は、んっ……」
ゆっくりと息を吐きながら、シリルが身を沈ませる。
彼が少しずつ腰を沈ませる度、ぬぐぐ、と性器を包む温かくぬめった感覚に陶然としながらも、ぼくはなけなしの理性を動員して、自らで動くのを堪えていた。
こんなにシリルが積極的なのに、ぼくが動いてはもったいない。
大きく息を吐きながら、シリルが起き上がらせたままでいたぼくの胸をとんと押した。
されるがままに寝そべるぼくの体の横に、腕が突かれる。
ぼくを押し倒し、完全に腹に乗った体勢になったシリルが、少しずつ腰を上下させた。
「んっ……」
ぬる、ぬる、と内部が蠢き、絞り上げられる。吸われて不足気味になっている血が、充血し張り詰めるそこと頭にばかり集中して、なんだかくらくらする。
酩酊した時のような感覚に包まれながら、ぼくはこのまま一つに溶けたらどんなに楽か、と馬鹿げたことを考えていた。
暮らし始めてまだ日が浅いものの、既にぼくは、この生き物を完全に理解することを放棄していた。
なにを考えているか、ほとんど分からないのだ。
シリルは腹が減った時以外、自分の望みを言うことはなかった。最初の数日のうちはなにか欲しいものはないか、なにかしたいことはないかとあれこれ聞いていたが、最近はそんなこともする気が起きなくなっていた。
理解出来ない。出来るはずがない。だって彼はヒトではないのだ。
だが、こうして血を吸われたり、交わったりして肌が触れ合っている間だけは、平素空気との境が曖昧に感じられる彼の輪郭がくっきりとして、ルヴナンのような雰囲気が少しだけ和らぐような感じがした。
この時がいつまでも続けば、ぼくももっと正直に、大胆に彼に接することが出来るのではないだろうか。
しかし、何事にも終わりはある。
交わりは長く続かない。ぼくにも、そして彼にだって射精という生理機能が備わっていて、それが済んでしまうと、我ながらぞっとするくらいに頭が冷えてしまうのだ。
芽生えかけていた温かでやわらかな感情が、一気に冷めていくような、そんな感覚。
「……ルヴナン……」
絶頂して、シリルがくたりと体を預けてくる。それを両の手で抱き留めながら、ぼくは思わずつぶやいていた。
頭を持ち上げるように少しだけ首を動かしたシリルの顔には、疑問符が浮かんでいる。自分のことを呼んでいるのか、分かりかねているような表情だった。
「なに」
「……なんでもないさ……」
セックスの後のシリルは、ぼくの心を知ってか知らずか、いつもよりも近くで、甘えるようにぼくに触れてくる。
なんて憎たらしい生き物なのだろう。おぞましいと言ってもいい。
そうされる度にぼくは、この彼にキスしたいような、いっそ害してしまいたくなるような、複雑な感情を抱くのだ。愛憎と言っていい。
「止血、しないとね」
そう言って、すん、と鼻を鳴らして、シリルが脱ぎかけになって乱れたシャツの襟を寒そうに引いた。汗で体温が下がったのだろう。
「とりあえず、いいよ」
ぞんざいに答えて、ぼくはシリルの首の根を引き寄せる。
とりあえずは、キスがしたい。ぐるぐると醜いマーブル模様を描くぼくの思いを覆い隠すような、恋人のような甘いキスが。
未だ少しずつ出血しているのであろう、じくじくと痛む太腿の痛みと、そして心を掻き乱す感情にも見ないふりをして、ぼくはやわらかなシリルの唇を堪能するのであった。