ぼくとシリルが共同生活を始めてから、二週間ほどが経ったある日のことである。
その日のぼくは、研究が一段落したのもあって、いつもより少し早く家路に就いていた。
今日は一日、なんだかいい日だった。
天気もよかったし、研究も思うように運んだ。
折角だ、今晩はシリルと一緒に外食をしてもいいかもしれない。
吸血鬼に人間の食事が必須でないのは分かっていたが、ぼくはなるべく自分と同じ食事を彼に用意するようにしていた。食事時になにもしないでぼくを見ているのもつまらないだろうし、出来る限り食の好みを共有したかったのだ。
食事の要不要はさておき、好き嫌いくらいは彼にだってあるはずだ。悲しいかな、まだ彼がひどく喜ぶような食事を見つけられずにいたが、そのうち彼が笑顔で美味しい、と言ってくれるものがあればいいな、と思っている。
「戻ったよ」
そんな訳で、ぼくにしては珍しく、浮ついた気分での帰宅だった。
「シリル、よかったらこれからどこかに食べに――」
言いながらリビングルームに向かい、持っていた鞄をダイニングの椅子に置く。
ぼくが帰ってくる時、シリルは大体リビングかベッドルームにいる。そして、今日もそうだった。
ベッドルームにいる時はだいたいまどろんでいるし、リビングにいる時は、新聞を読んでいるかソファでごろごろしているのだが――顔を上げ、リビングのソファの方、つまりシリルがいるところを見た瞬間、ぼくは固まっていた。
「ケイ」
ぼくの名を呼びながら、シリルがかすかに微笑む。だがぼくは、喜ぶことも、安堵することも出来なかった。
「あ、あ、え」
驚きのあまり、声が途切れ途切れにしか出てこない。ろくな言葉にもなっていないそれをなんとか単語にまとめて、ぼくはわななく声で叫んだ。
「な……にを読んでいるんだ、きみは!」
シリルがソファに腰かけ、新聞の代わりに読んでいたもの――それは、ぼくが今まで密かに集めていた、「秘蔵」の小説であった。
◆
「はぁ……」
「どうしたの」
「いや、なんでも」
五月に入り、外は夜になっても温暖な日が続いていた。外に出る時ももう薄手のコートは必要なく、ぼくもシリルも、フロックコートの上にはなにも着ずに歩いている。
時たま人の視線を感じるのは、恐らくシリルのせいだろう。
やはりと言うべきか、シリルは人の目を引いた。
ぼくがずっと通っている仕立屋に連れて行き、親戚の子を預かることになったのでと紹介してやった時も、店主の男性は「こんな美丈夫の服を決められるなんて」とひどく楽しそうな様子で採寸をしていたものだ。
今もその際に作ってもらった、店を出た時のものほどでは古くさくはないが、少しレトロな型のフロックコートを着ているのだが、それがまた非常にさまになっていた。
(シリルは、ちらちらと人に見られているのも気づいていないのだろうなぁ)
先ほどシリルが読んでいたのは、ぼくが気が向いた時に集めていた、少年性愛を扱った本であった。
慌てて奪い取り、元あった場所にしまったのだけれども、書棚の奥に隠していたのに見つけてしまうなんて、考えてもいなかった。
読まれて嫌だ、とまでは言わないが、恥ずかしい。
なにせ、買い求める時だって人の少ない小さな書店を転々として、ひっそりと買っては自分の奥深くに潜む青少年への興味を抑えていたというのに、今その興味や欲情を一身に受けている当の本人に見られてしまったのだ。普段他人に知られることのない性癖を覗き見されてしまったようで、どうにも落ち着かない。
書物は色々なものを買っていて、プラトニックなものから、つまりその、言うのが憚られるようなものも幾つかあったのだけれども、シリルはどこまで見てしまっただろうか。帰宅した際に見ていたのは純愛ものだったが、その奥の、とある伯爵が暇に飽かせて少年たちを慰みものにしていく本を見られていたらと思うと、気が気でなかった。
そんな訳でこうして外出した今も溜め息が漏れてしまうのだが、隣を歩いている彼はこちらの心情を酌んでくれるような吸血鬼ではない。ぼくは気を紛らわせるために、レストランが立ち並ぶ通りに目をやった。
マレ地区の中でも、この辺りは飲食店が多い。その中の一つ、小さな店構えのレストランへ目をやると、それに気づいたらしいシリルが首を傾げた。
「そこにするの?」
「どうかな。バスク料理の店だよ」
何度か行ったことがあるが、味は保証出来る店だ。
「バスク?」
「……後で説明する」
質問以外の意見はなさそうなので、取り敢えずぼくは店のドアノブを掴む。中に入り、席を案内されたところで、ぼくは再び口を開いた。
「気になるものを頼んでいいよ」
「……」
ギャルソンから渡されたメニューを差し出すと、彼は少し困ったように眉尻を下げた。食べたいものが思いつかないのだろう。
こういったやりとりも、もう何度目かになる。その度に言っているお決まりのせりふを、今夜もぼくは口にした。
「食べる必要がないのは分かってる。でも、ぼくはきみと食事がしたいんだ。選びなさい」
「……じゃあ」
彼の気が変わらないうちに、店員を呼ぶ。シリルは恐らく目に留まったものを言っているのだろう、ジャンルがめちゃくちゃだったが、それでも一応は考えているようで、前菜とメイン、オードブルときちんと分量は揃っていた。
「Santé」
ついでにおすすめのワインを頼んで、乾杯する。
シリルが、なんてことないような顔をして赤ワインに口をつける。
吸血鬼がなみなみと注がれた赤い液体を飲んでいると言うのは、少し面白い。ワインには血液のようなとろみはないし、吸血時の妖艶な彼とは比べるまでもないのだが、淡々と飲んでいるのが逆に面白いのだ。
「バスクと言うのは」
前菜の盛り合わせを片づけ、アショアと呼ばれるバスク独特の子羊の挽肉にパプリカやタマネギなどの野菜を入れ、トウガラシとともに煮込んだものと塩タラのオリーブ煮が運ばれたところで、ぼくは口火を切った。
「スペインと我が国にまたがる地方の総称だ。ピレネー山脈は流石に分かるだろう?」
シリルが頷くのを確認して、つい「よろしい」と言ってしまった。授業時のぼくの癖だ。
「山と海の両方を有していてね。料理を始め、文化も独特なものが形成されてるんだ。特に山岳地方の田舎は落ち着いていてね、いい景色らしいよ」
「らしい?」
「ピレネーの近くには何度か行ったことがあるが、バスクの方へはぼくもまだ行ったことはないんだ」
なにせ、列車と馬車を乗り継いで数時間とかかる場所である。山岳地帯であるから、研究にかこつけて行くことは出来るのだが、一人だとどうにも億劫で、本でスケッチを見るだけに留まっていた。
ふぅん、といつものように興味があるのだかないのだか分からないような相槌を打って、シリルがアショアを口に含んだ。
見た目はいかにも家庭料理と言った感じのシンプルな肉と野菜のフォン・ド・ヴォー煮込みだが、アショアにはトウガラシの他、幾つかハーブが入っている。思ったよりも複雑な味つけだったのか、少しだけ、シリルが目を丸くした。
食べ物に対してシリルがなんらかのリアクションを返したのは、初めての気がする。ぼくは慌てて問いかける。
「美味しい?」
「よく、分からない」
言いながらも、シリルはスプーンを動かしていた。食事が必要でない彼が積極的にものを食べるのは珍しい。ちょっと子供っぽくて可愛らしかった。
「でも、そういう顔をしてたよ」
言い返して、ぼくもスプーンをつける。汁気の多い煮物は、赤茶色にまとまった外見に反して、あっさりとしていて幾らでも食べられそうだ。
続いて供された塩タラの煮込みも、シリルは黙々と食べていた。シリルが適当に頼んだので煮込みが被ってしまったが、これもまたニンニクが効いていて、アショアとは違った美味しさがある。
淡々と、しかしなにも言わずにフォークとスプーンを口に運ぶシリルを眺めながら、ぼくは考えていた。
バスク地方は観光産業が活発で、リゾート地としても有名である。そして、学生ほどではないにしろ、ぼくにも一応、年次の切り替え前に夏期休暇と言うものがあるのだ。
「シリル」
名を呼ぶと、シリルが皿から視線を上げ、ぼくを見つめた。伏し目がちの深い青の瞳が宝石みたいに輝いて、ぼくをひたと見据える。まったく、ものを食べていても美しい男だ。
「いつかきみとバスクへ行きたいな。間近で見るピレネーは、壮大で美しいよ。きっときみも気に入る」
まさかそんなことを言うとは思っていなかったのか、シリルは再び、少しだけ目を見開いて、ぱちぱちと瞬きをした。彼も驚くことがあるらしい。
「……うん」
返事は、微笑を伴ったものであった。
自分から言っておきながら、ぼくは無性に恥ずかしくなっていた。ぼくの赤面を誘うほどに、その微笑みは美しかったのだ。
気恥ずかしさを隠すように、店員を呼び止め、白ワインを注文する。頬の赤いぼくを不思議そうに見ながら、シリルはまた一口、タラを口に含んでいた。
今、思い返してみれば。
それはぼくとシリルが交わした、初めての約束だった。