「おはよう、シグ」
起きる時間が経ってから数分、のそのそとリビングへ姿を現したシグのマスター・クウヤは、いかにも眠そうな様子でキッチンの向かいに据えられたカウンターテーブルへの席についた。
身支度こそ終わっているが、それだけは済ませたと言った方が正しい。あくびを漏らす彼の前へコーヒーの入ったカップと買い置きの小さな高カロリービスケットを置いてやると、シグは出来るだけ穏やかな口調で挨拶を返した。
「おはようございます、マスター・クウヤ。コーヒーはブラックでよろしかったでしょうか?」
「ああ。……いただきます」
遺伝子のルーツだからか、クウヤの食事作法は西暦代の日本のそれに近い。手を合わせるまではいかないが、必ず「いただきます」と「ごちそうさま」を口にする。
啜るようにコーヒーを飲んでいるうちに目が覚めてきたのか、手持ち無沙汰となったシグが隣に座った瞬間に、彼はそうだ、と声を上げてシグへ向き直った。
「シグ。トリック・オア・トリート」
「……なんて仰いました?」
聞き覚えのない単語だが、なにかの製品の話だろうか。今朝も起きてからカウンターに置いてある端末のAIがニュースを話していたが、そんな単語は聞こえてこなかった気がする。
あまり会社の機密に類する話をする人ではないが、勤め先であるアイギス・カンパニーが新開発した機器の名だろうか。
しかし、それにしては名前が奇妙であった。「悪戯か馳走」?
「……これは、ハロウィンの決まり文句なんだ」
「ハロウィン?」
「元々は秋の収穫を祝うのと悪霊を祓うのを兼ねた祭りみたいなもので――兎に角、西暦代の行事だよ。十月の終わりにやるらしいんだが、その時に子供たちは家々を回って、これを言うそうだ。訪問先の家は、子供の『悪戯』よりはと、代わりに菓子を差し出すんだ」
「……なぜ、それを?」
確かに今日は十月の終わりだが、地球とは微妙に暦の周期が異なる。それに、マスターはもう立派な社会人だ。疑問が顔にありありと出ていたのであろう、ビスケットを手元で折りながら、ふ、とクウヤが笑った。
「思いつきだよ。昔、親に教えてもらったのを数日前にたまたま思い出してな。それで、今日になったらお前に言ってみようと思って」
なるほど、たまたまの思いつきと言われてはなにも言い返せない。
つい今なされた説明を思い返しながら、数秒考える。そうしてから、シグは口調も弱々しく言った。
「……では、トリックの方でお願いします」
「え?」
そちらの返しは考えていなかったのか、涼やかな目を驚きに染めて、クウヤがシグを見つめてくる。恐縮しきって肩を落とし、シグはおずおずと続けた。
「菓子の用意がありませんもので……。すみません、私もその行事を知っていればご用意したのですが、なにぶんマスターに比べて西暦代のことに疎く……」
「いや、いい。マルグリット暦になってからは一部の地域以外やってない行事だし、気にするな」
シグの様子に、クウヤが慌てた様子で手を振る。
残りのビスケットを食べながら、彼はしばらく黙り込んだ。
少しだけ、気まずい。なにか話題を、と思って彼を再び見遣ると、クウヤはビスケットを完食し、コーヒーを呷ってから、カップを置くなりきっぱりと言った。
「ごちそうさま。……で、悪戯だな。分かった」
「な……、マ、マスター!?」
カップを持っていて温かくなった手が、がば、とシグの両脇の下に突っ込まれた。
そのまま、脇の下から脇腹にかけて、もぞもぞと手指を動かされる。なにがしたいのだろう、と困惑して彼を見下ろすと、シグの胸に半ば顔を埋めた状態でしかめ面になっていた。
「……くすぐったくないのか?」
「……え?」
「今、精一杯くすぐってるんだが」
「あ、ああ……。ええと、そうですね。少しだけ感じますが、護衛用ギフテッドは元々痛みや掻痒には強いためか、あまり……」
言われるまで気づかなかったので、クウヤのやり方にいささか問題があるような気もする。しかし、痛覚や掻痒感を鈍化されているのは確かだ。
シグの返答がお気に召さなかったのか、クウヤはむ、と口を一文字に引き結んだ。
「そうか……」
「……ええと、マスター・クウヤ。そろそろご出発なさった方がよろしいのでは」
この話題を続けていても、お互いのためにならない気がする。出発時間が迫っていたのをこれ幸いに、シグは話を切り替えるために手早く手元のモバイルでオート・タクシーを呼んだ。この時間は通勤ラッシュだが、そのためにタクシーも回転が速い。五分後にマンションの下に着くと言う表示を見て、ほ、とシグは息を吐いた。
「五分後にエントランスです。もう降りられますか?」
「ああ」
クウヤも、出勤が近いと分かってなお、先ほどの話を無理に続ける気はないらしい。カウンターに置きっぱなしにしていたモバイルを掴んで、シャツのボタンを襟元まで留めると、彼はすたすたと玄関へ向かっていった。きっと、いつものように玄関の姿見で髪型と服装の確認でもしているのだろう。
二人並んで高速エレベーターに乗り、一階まで降りる。
「会社までお供いたしましょうか?」
「ここで大丈夫だよ。……ああ、そうだ」
クウヤのその時々の気分で会社の前まで付き添っているが、今日はそこまでする必要はない、と言う気分らしい。微かに眉尻を下げて笑った後、クウヤは思いついたように声を上げた。
「はい? ……、……」
くい、と腕を引かれたかと思うと、唇にやわらかなものが触れていた。
「……ちゃんとした悪戯、考えておく」
「え」
「それじゃあ行ってくる。また夜に」
タイミングよく滑るようにやって来たタクシーに乗り込んで、クウヤは颯爽と会社へ向かっていった。
「……え?」
「悪戯」の後に付け加えられた「また夜に」と言う囁きに、シグは思わず呆然としていた。
クウヤのことだ、特になにも意味はなく、ただ「また仕事の終わった夜に会おう」と言うつもりで言ったのかもしれない。
いや、きっとそうだ。そうに違いない。言葉こそ思わせぶりだが、深い意味なんてあろうはずもない。
(……ですよね、マスター?)
唇に、まだキスの感触が残っている。我知らず口元へ手をやりながら、シグは部屋に戻ってもしばらく、「夜に行われるであろう悪戯の続き」のことを考えてしまったのであった。