甘い指先

「戻ったよ。シリル?」

 週末の夜、大学から自宅であるアパルトマンへと帰ってきたぼくは、同居人であるシリルの名を呼びながらリビングルームへと向かった。

「なに?」

 シリルはと言うと、長い足をゆったりと組みながら、リビングルームにある小さなソファで本を読んでいた。タイトルを見る限り、ぼくが書斎に置いていた学術誌だ。
 地質学にまったく興味のなさそうなシリルがそんなものを読んで、果たして楽しいのだろうか。しかし、彼が本棚から適当な本を抜いて読んでいるのは今更の話で、それも時間を潰すために単に目を通しているだけなのも知っているので、ここでは敢えて追求しないこととして、ぼくは手に持っていた荷物をダイニングのテーブルに置きながら、美しい吸血鬼の方へと向き直った。

「遅くなってすまなかったね」

 今日は、仕事の後にぼくの上司であるオーバン教授とそのご夫人との食事があったのだ。普段ならば仕事が終わった後は家でなにか食べるか、はたまたシリルを連れてどこかへ食べに行っているのだけれど、そんな訳で今日はずいぶんと彼を待たせてしまった。
 吸血鬼には人間の食べる食事は必要ないのだから、ぼくがどこでなにを食べてこようがどうでもいいことかもしれない。だが、それでも夜遅くまで待たせてしまったと言う罪悪感があるのだ。
 シリルは、今夜もぞっとするほど美しかった。
 金に近いふわふわのアッシュブロンドに、伏し目がちの深い青の瞳。軒のように垂れる睫毛を伏せさせて、シリルは一言、別に、とつぶやいた。
 これもいまに始まった話ではないのだが、この吸血鬼は感情表現が乏しい。それに、どうにもぼく――と言うよりぼくの血以外に興味がないようで、大体なにを言ってもいまみたいに「別に」だとか「そう」だとか、そういう素っ気ない相槌ばかりが返ってくる。
 なので彼の返事は気にしないこととして、ぼくはソファへ近寄ると、手に持っていた荷物をずいとシリルの方へと差し出した。

「これ、土産。……と言っても、もらいものだけど」
「なに、それ?」
「菓子だよ。オーバン教授の奧さんに頂いたんだ」

 シンプルな紙箱を受け取ったシリルが、がさがさと中身を開ける。
 中身は、大きなシュー・ア・ラ・クレームだった。ぼくがシリルと同居していると教授から聞いていたらしい、ありがたいことに二つ入っている。

「手作りだと仰ってたけど、大ぶりで美味しそうだね。これから紅茶を淹れるから……」

 時間は遅いけどお茶にしよう、と言いかけたその時であった。シリルの節の目立つ細い手が動いたかと思うと、箱からシュー・ア・ラ・クレームを手に取って、そのままぱくりと口を開けたのである。

「シ、シリル」

 皿も用意せず手づかみで食べるのはいささか行儀が悪いのでは、とか、せめて紅茶を淹れるまで待ってくれ、とか言いたいことは色々と浮かんだが、そのどれもが実際の言葉として表に出ることはなく、頭の中でたちまちのうちに霧散してしまった。
 細い指が下から支えるようにシュー生地を持ったかと思うと、切れ込みの入って蓋のようになっている上の生地をぺりぺりと剥がして、その先にクリームをつける。
 薄紅色をした唇が、しゃべる時も薄く口を開ける彼にしては珍しくぱかりと大きく開いて、口腔内の赤がぼくからもよく見えた。
 菓子を迎え入れるために差し出された舌は尖って上を向いていて、そこにぺちゃりとクリームが触れる。すぐさま閉じた口は咀嚼のためだろう、むぐむぐと小さく動いて、空いた指はつい、と口の端についたクリームを拭い取った。

「……」

 つい、手が動いた。
 彼の手首を取って、クリームのついた指先を口先に含む。甘いカスタードの中にかつり、と彼の爪を感じて、なぜだか背筋がぞくぞくとした。

「……ケイの分、そこにあるけど」

 そう言って、シリルが膝に乗せた箱を指す。その顎先を掴んで、ぼくは黙って彼に口づけた。口の中も、甘い。

「ねぇ」

 指も唇も甘かったのに、呼びかける声だけはいつもと変わらぬ、つぶやくような静かな口調であった。

「……少し、黙って……」

 もう片方の手も取って、持っていた食べかけのシュー・ア・ラ・クレームを奪い取る。

「ほら」

 呼びかけながら、彼の口元へ、ふわふわの生地を押しつけるように近づける。
 はなから拒むつもりもないのだろう、シリルが先ほどのように口を開いた。舌が伸びて、数夜おきにぼくの首筋をかじるあの歯が、やわらかな菓子の中に埋まっていく。
 再び、背中に粟立つ感覚があった。無防備に菓子を食べさせられているシリルの姿に、ぼくはみっともないくらいに興奮していた。
 一口目のように小さな生地を食べたのではなく、ぼくの手ずから大きな生地から食べたからだろう、シリルの唇の端にはさっきよりもべったりとクリームがついていた。

「ん」

 吐息のような声とともに、シリルが顎を仰のかせた。
 自らの手ではなく、ぼくに拭えと言っているのだ。それに気づいて、首の後ろがかっと熱くなった気がした。
 人差し指の背で乱暴に口の端を拭い、そのまま唇の中央に押しやると、真っ赤な舌先がちろりと覗いて、ぼくの指先をねっとりと舐め上げた。

「ケイにもやる? 同じこと」
「……いや、遠慮しておく」

 別に食べさせあいがしたくてやったのではない。ただ、この美しいばかりの吸血鬼が、ぼくの手からものを食べている、そのさまが見たかっただけなのだ。
 まさかそんなことを正直に言えるはずもなく、ぼくはもごもごと口を動かしながら、いやに脈打つ鼓動を抑えるためにつとめて深く呼吸をしたのであった。

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