きずあとのリング

 夢を見ていた。
 儚く、脆く、そのくせいやに現実的な夢。
 否――夢と言うより、これは過去の焼き直しだ。

「よ……『宵闇にこそ真実が宿る』……」
「ありがとうございます。会員証も確認いたしました。……ムッシュ・ドゥブレ、ようこそこのクラブへ」

 そう言って、ドアマンの女性はほんのわずかだけ口の端を持ち上げた。
 初めて唱えた合い言葉が、もつれたまま喉の中に引っかかっていた。ぎしぎしと音がしそうに軋む手で、会員証をフロックコートの内ポケットに押し込む。

「誰かつけましょうか?」
「え」
「可能な限り、ムッシュのお好みに合う者をお呼びしましょう」
「で、ではその、落ち着いた、……女性を」

 外は真冬だと言うのに、コートの内側にうんざりするくらいに汗をかいていた。ぼくが緊張しきっていることは、声と態度から、このドアマンの彼女にも伝わっていることだろう。そう思うと、浮かべている笑みや、丁寧な言葉仕草の一つ一つが、胸にちくちくと刺さる心地がした。
 ああ、そうだ。ぼくは自虐的な性格をしているとも。だが、こればかりは仕方がないだろう。なにせ初めて赴く場所で、初めてのクラブで、それも――このクラブは、ただのクラブではないのだから。
 クラブ・プライベート・ブラッド。正しい店名はないが常連たちからそう呼ばれるこのクラブは、「吸血鬼」と会うことが出来るクラブである。……らしい。
 ぼくがもっと大胆だったら、きっと初めてのこの夜から、ぼくの好みである見目麗しい少年を、と言っただろう。
 だが、悲しいかな、ぼくは初対面であり特殊なクラブのドアマンである彼女に対してすら、体裁を繕ったのだ。

「それではムッシュ、どうぞ素敵な夜をおすごし下さいませ」
「……ありがとう」

 言葉とともに、倉庫か勝手口か、と言った感じの重たそうな木戸が開かれる。
 中をくぐると、ガス灯のある外よりも暗いのではないかと言うような、一種の洞窟のようなほの暗さがあった。明かりは壁やテーブルにちらほらと置かれているランプだけらしい、気を抜いているとつまずいてしまいそうだった。

「ムッシュ? ムッシュ・ケイ・リー・ドゥブレ?」

 入ってすぐ、大広間に繋がる廊下の前に、ゆっくりとした口調でぼくの名を呼ぶ女性がいた。
 赤茶色の長い髪を編み込んでまとめていて、目尻の少し垂れた瞳がいかにも温厚そうな女性であった。バッスルのドレスがよく似合っていて、社交場の令嬢のようであった。
 その手首に、しゃりしゃりと細い音を立てて揺れるブレスレットがあった。
 くすんだ金の鎖の、小さなタグつきのブレスレット。――このクラブで吸血鬼であることを示す目印である。

「ブリジットと申します。……なにか、飲まれます?」
「あ、ああ。それでは、ワインを」
「分かりました」

 にこりと微笑んで、彼女は近くにいるギャルソンを呼び止め、ワインを二人分頼んだのちに、ゆっくりとぼくの方へ振り返った。

「こちらへ。ソファをご用意しておりますの」

 そう言って、たおやかな手が差し出される。おずおずと手を取ると、温かかった。どうやら、吸血鬼でも体温というのは変わらないらしい。
 大広間はたっぷりとした布で細かく区切られており、彼女はその内の一つ、二人掛けの小さなソファがある区画へぼくを案内した。
 腰かけると、待っていたようにワインが運ばれる。

「乾杯しましょう」

 またブリジットが笑う。女性特有の慈愛に満ちた、完璧な微笑みであった。
 彼女にならうようにグラスを持ち上げ、乾杯をしても、ぼくの心はどこか落ち着かなかった。
 吸血鬼は血を糧としているだけで、その他は人間と変わらないらしいが、彼らと接するのはこれが初めてだった。
 確かに、見たところぼくたち人間となにも変わるところがない。血を吸う、と聞いていると赤ワインを飲むさまが少し恐ろしいようにも見えたが、耳が尖っている訳でもなければ、刃物のような爪をしている訳でもない。そんな戸惑いが顔に出ていたのか、ブリジットは微笑みながらブレスレットのついた手をひらひらと振ってみせた。

「クラブは初めてだとお聞きしましたわ。……私たちが人と変わらないように見えます?」
「……ああ」
「ふふ、それで皆さん、よく驚かれます。もっと恐ろしい、化け物みたいな見た目の方がよかったかしら?」

 口元を隠しながら、ブリジットがころころと笑う。ぼくは慌てて首を振った。

「そんなことはない。その、美しい方がいいとも。……きみのように」
「あら、ありがとうございます、ムッシュ」

 本当を言うと、心がそわそわとしているのには、初めて吸血鬼に相対する緊張以外にもう一つ、理由があった。
 ブラウンの長い髪の令嬢には、ちょっとした思い出があるのだ。――あまり、掘り返したくない思い出が。

「私たちが人ではないということは、ひとまず忘れて下さいな。まずはお話をしましょう? ムッシュは、なにをしていらっしゃる方なの?」
「……パリ大学で、研究員を」
「まぁ、先生じゃない。素敵だわ」

 手を合わせ、目を綻ばせて喜ぶ。その仕草がまた、似ていた。

『難しいことを言うのね。私には、すごいってことしか分からないわ、ケイ』

 なにも難しいことではない。だが、ぼくの学び研究している地質学というものは、どうにも人の理解を得がたいものらしい。

『でも、あなたがそうやって勉強の話をしているの、そんなに嫌いじゃないわ』

 なにを言うやら、きみは時たま、しかめ面をしていたじゃないか。

『ケイ、もっと話をしてちょうだい。……そう、私の顔を見て』
「ムッシュ?」

 いつの間にか蒸し返したくない過去に自ら頭を突っ込んでしまっていたらしい、ブリジットが心配そうにぼくを呼んだ。

「すまない、その、少しぼうっとしてしまって」
「いいんですよ。……ねぇ、どんなことをなさっているのか教えて下さる?」

 よりによってそれを聞くか、と思った記憶はある。だが、夢のぼく、過去のぼくは言い返すことも拒むことも出来ず、秋学期の講義始めに決まってする説明を口にしていた。

「層序学と言って、我々が立っているこの地表の下、折り重なっている地層のその順序にまつわる学問で――」

 ◆

「……うう」

 うめき声を上げながら、ぼくはゆっくりと体を起き上がらせた。
 寝室には時計がないため、時刻が分からない。だが、日が昇っていることだけは確かなようで、出窓からは日差しが差し込んでいた。
 最悪の目覚めに反して、外は気持ちのいい天候らしい。夏が近いのもあるだろう。

「シリル……」

 再び寝て、嫌な夢を忘れてしまいたい気持ちと、眠ったらまた夢の続きを見てしまうのではないかという思いがせめぎ合う中、ぼくは同居人であるシリルの名を呼んだ。
 シリルは、春先にぼくが引き取ることになった吸血鬼である。
 最初に店を訪れたあの夢の後、誰にも供についてもらうことがなかったぼくが偶然出会った、幽霊ルヴナンのごとき美しさを持つ青年であった。
 吸血鬼と言うのは血の相性のいい人間からしか生き血を吸うことが出来ないらしく、相性のいい人間が見つかるまでは、とある筋から入手した人造血液のようなものを啜って生きているそうだ。本来ならば店の仲介をもって相性のいい人間と出会うものらしいが、ぼくとシリルはちょっと違っていて、なし崩し的に契約を結ぶことになったのだが、詳しい説明はここでは省くことにする。
 とにかく、彼がどれだけぼくにはもったいない美人であったとしても、シリルの方がぼくを必要としている訳であり、ぼくはその状態に甘んじて、彼の美しさをありったけ享受しているのだが――そのシリルが、隣にいなかった。
 いつもならば、休日のこんな昼間、ぼくの隣で惰眠を貪っているはずである。夜行性と言ってもいい、昼間はぼうっとしてばかりいる彼の方が早く目覚めるなんて、珍しいこともあるものだ。

「……シリル?」

 もしかして、なにかあったのだろうか。まさか、寝ている間にドアベルが鳴って、来客があったとか?
 そんなことを思いながらベッドから立ち上がり、寝室を出てリビングルームへ向かう。
 リビングルームはベランダに繋がっているお陰で、カーテンこそあるものの、寝室よりも更に明るかった。
 その明るい中に、幽鬼のような男がいた。
 年の頃二十半ばの、美しい青年である。窓が少し開いているのか、日にかざすと白っぽくなる、金に近いアッシュブロンドが、うなじの辺りでふわふわと揺れている。ぼくがいるのに気づいたのだろう、ゆっくりとこちらへ向いた双眸は眠たそうに伏せらていたが、これが彼の常だ。ともすれば現実の世界など見えていないのではないかと思うような夢見る眼差しの瞳は、しかし見つめれば吸い込まれてしまうような深い青に輝いている。
 一八〇と数センチ、ぼくより十センチ近く高い背は、少し上半身が屈められていた。どうやら、手元のなにかを見ているらしい。
 鍵や小物を入れている棚の前に、彼は立っていた。そこの引き出しに入っていたものをちょうど取り出したところなのだろう。
 日差しを背景にしてこちらを見つめる彼は、やはり昼中に出てきた幽霊のような、現実味のない美しさを伴っていた。
 数秒、見入られるように彼を見つめていたぼくは、最後にやっと、その手元へと視線を移した。
 ベルベットの貼られた、小さな箱だ。まるでなにか装飾品でも入っていそうな、そんなデザインの箱である。それが、ちょうど開かれた状態で、シリルの手の中に収まっていた。
 それを見た瞬間、ぼくの心と体は、正反対の動きをとっていた。
 体は、考える間もなく大股で彼に近づき、乱暴な手つきでその箱を持つ手を掴む。だが、心はがちがちに固まってしまっていた。まるで石のように。
 開いた箱を持つ手を掴んだせいで、シリルの手にあったものが小さな音を立てて床の上に落ちた。中に入っていたものがころころと軽い音を立ててじゅうたんの上を転がっていく。
 反射的に、その転がり落ちていったものから視線を離していた。箱の中身がなにであるか、家主であり、その箱をしまった本人であるぼくには、見なくとも分かっていたからだ。
 まさか、この出来事が起きることを予測して、あんな夢を見たのだろうか?

「ケイ」

 落ち着いた、心地よい声がぼくの名を紡ぐ。

「指輪?」

 森深くにある湖の水のように静かなシリルの声が、その単語を口にした。
 胸が、どきりと拍動する。思わず掴んでいた手首に力を込めると、シリルがわずかに柳の眉を寄せた。

「……痛い」
「す、すまない」

 我を失うあまり、強く力を入れてしまっていたのだ。

「落ちたよ」

 慌てて手を離すと、シリルはぼくのやや後方――転がっていったそれに視線を投げかけ、そうつぶやいた。

「拾わなくていい」

 瞼を閉じ、眼前にいるシリルを除外して、ぼくは吐き捨てる。

「でも」

 長い瞬きから瞼を上げると、彼は数歩移動していて、転がっていたそれ――指輪を拾い上げるところだった。

「きれいだね」

 そう言って、シリルが小箱を持っていない方の手で指輪をつまむ。銀細工の縁に窓からの日差しがぶつかって、その輪郭をきらりと光らせた。

「知らなかった」

 ぼくが黙っているのをいいことに、シリルは再び口を開いた。普段は話を振っても反応が鈍いくせに、今日に限って、彼にしてはおしゃべりな方だった。

「結婚、してたんだ」
「黙れ!」

 恐れていた言葉をシリルが口にしたのを頭が理解した瞬間に、口から言葉が迸っていた。

「もう過去のことだ! きみには……話す理由はない!」

 ぼくの聞くに耐えない言葉にも、シリルの表情は動くそぶりもない。指輪を見つめていた時から変わることなく、どこか不思議そうな面持ちのままだ。

「ケイ、でも」
「でももなにもあるものか、ぼくは……」

 そこまで言ったところで、思考がぴたり、と動きを止めた。
 黙れ、だなんて、シリルになんてひどいことを言ってしまったのだろう。彼はたまたま戸棚から見つけたものに対して、ただ感想を述べただけにすぎない。
 ぼくが言葉を止めたのには、冷静さを取り戻した頭に、背後からわっと後悔が襲いかかった以外にも理由があった。
 電話が鳴っていたのだ。亡父から引き取った、時代を先んじた機器。一個人が持つにはいささか早いその機械が、リビングと間続きになったダイニングの壁で、ジリジリと上に据えられたベルを鳴らしている。

「……はい?」

 シリルに謝罪の言葉をかけている間に、電話が切れてしまうかもしれない。そんな理由をつけて、ぼくは受話器を掴んだ。
 ――違う、そんなものは建前だ。ただ、指輪を持ったままぼくを見つめてくるシリルから逃げるのにうってつけの理由が出来て、それにしがみついただけである。

『ケイか? 俺だ』

 ぼくよりもやや低くて、ぼくとは比べるまでもなく快活な声。
 忘れようもない声であった。

「テオ……兄さん?」

 反射的に、相手の名前が口をついた。それに満足したのか、テオ――テオドール兄さんが、ふっと電話口で笑う。

『久しぶりにパリに帰ってきたんだ。食事でもどうだ』
「それは……もちろん、いいけど……」

 しゃべりながら、横目でシリルの姿を盗み見る。見ると、彼は指先で弄んでいた指輪を箱にしまっているところであった。

『それじゃあ――』

 大して悩むこともなく、兄は三日後の夜、コンコルド広場からほど近いレストランで会おうと口にした。

「ああ、いいよ。……うん、うん。それじゃあ、また」

 大学からもさほど離れていないし、そのレストランには何度か足を運んだことがある。だが、二つ言葉で返事をしながらも、ぼくの心はそわそわと落ち着かなかった。
 視界の隅で、シリルが小箱を戸棚にしまっている。その横顔の、なにも思っていなさそうな表情が、心にちくちくと突き刺さった。
 通話を終え、受話器を置くと、肺からせり上がるように溜め息が漏れた。
 そのまま、意識して深呼吸をする。振り返ると、シリルはいつものなにを考えているのか、はたまたなにも考えていないのか、それすらも分からない独特の無表情でもって、ぼくから少し離れたところに突っ立っていた。まだ少し痛むのか、軽く手を押さえているのが、ぼくの罪悪感を駆り立てる。

「……いまの電話、兄からだったんだ」

 ともすれば口を突いて出てきそうな謝罪の言葉を押し込んで、ぼくはシリルに電話の相手を明かした。

「お兄さん?」
「そう。テオドールと言うんだが、……三日後の夜、会うことになった」
「そう」

 説明しても、相変わらずシリルの反応は素っ気なかった。
 ……そう言えば、ぼくは彼に家族の話をほとんどしていなかった。兄がいることすら、言ったかどうか定かではない。
 再び、後悔がぼくの胸に押し寄せていた。
 刹那的な生活を送るばかりで、ぼくはシリルに自分のいままでの成り立ちと言うものを、さっぱり教えていなかった。
 共同生活を送っている――有り体の言葉で言えば恋人に当たるであろう人間の過去を知らないというのは、どんな気分だろうか。
 ぼくだってシリルの過去を知らなかったが、ずっとクラブですごしていたシリルにとって、過去などあってないようなものだろう。クラブの人間の口ぶりでは、吸血鬼に親という存在がいるのかも怪しかった。
 だが、ぼくは違う。名前も出自も分かっている父と母がいて、年の離れた兄がいて、そして――

「シリル、その……」

 とにかく、謝らなければ。そう思い声をかけると、ずっと棒立ちになっていたシリルが、あふ、と吐息を漏らした。あくびだ。

「……寝てもいい?」

 本来の彼は、正午前後にならないと目を覚まさない。今日起きていたのは、本当にたまたま、ふと目が覚めただけのことだろう。そして、自覚していなかった眠気が、電話中に蘇ってきたに違いない。

「あ、ああ。いいよ」

 見れば、瞳はとろんとしていて、いつもより更に眠たそうに伏せられていた。
 シルクのシャツの袖が眼前でひらりと躍る。かと思うと、シリルは呆気ないくらいにあっさりと目の前を通り過ぎていった。

「……おやすみ、シリル」
「うん」

 シリルは、ほとんど挨拶というものをしない。通り過ぎていく背中にぼくがようやく眠りの言葉を投げかけても、相槌しか返ってこなかった。
 自分が先ほど出て行った寝室に、彼の長身が消えていく。ぼくにはその背中を、呆けたまま見送ることしか出来なかった。

 ◆

 ひどいことを言ってしまった。その上に、うやむやになったまま謝りそびれてしまった。
 そのことは、ぼくの心を少なからず苛んでいた。

「はあ……」

 もう何度目か分からない溜め息が、口から勝手にこぼれ出る。それを耳にした少女が、もう、と言って肩を竦めた。

「溜め息多いですよ、ムッシュ・ドゥブレ」
「すまないね……」

 明るい赤毛のボブカットがトレードマークの、我が層序学教室のムードメーカー、ミネ・コティヤール嬢の諫言にも、ぼくはただ謝ることしか出来なかった。

「オーバン教授もなにか仰って下さい」

 ただ謝罪の言葉を繰り返すだけのぼくに業を煮やしたのか、ミネくんは奥の大机にいるオーバン教授にまで話の矛先を向けた。
 エドゥアール・オーバン教授――このパリ大学内だけではなく、こと地質学という学問においては名の知れたその人が、整えられたグレーの口ひげをひと撫でして、はは、と穏やかな笑い声を漏らした。

「ドゥブレくんもまだ若いからね。溜め息くらい吐かせてあげたまえ」
「そういうものですか?」

 オーバン先生のやんわりとしたフォローにも、ミネくんは食い下がっていた。
 確かに、五十代のオーバン教授から見れば、三十そこそこのぼくなど若者に入るのだろう。だが、まだ二十代に入ったばかりのミネくんからしてみれば、先生同士の甘やかしに見えるに違いない。

「そういうものなのさ。そういうものと言うことにしてくれ」

 勝ち気なミネくんにこれ以上口を挟まれたら、押しの強くない方であるぼくとオーバン先生は間違いなく負ける。だからぼくはすかさず口を挟むと、そそくさと帰り支度をした。
 今日は兄と約束のある日である。

「それでは、お先に失礼します」

 普段なら最後まで残っていそうなぼくが、日の傾き始めた頃に帰るのは珍しい。ミネくんは驚いたようにぼくを見たが、オーバン先生には前もって事情を説明してある。口ひげと同じ色をした頭が小さく上下して、ふくよかな口元が笑みの形を作った。

「ああ、今日はお兄さんと会うのだったね。行ってらっしゃい」

 オーバン教授の言葉に、ミネくんがはっとした顔をぼくに向けた。

「ムッシュ・ドゥブレのお兄さんってことは、テオドール・ドゥブレですか? あの『ドゥブレ商会』の?」
「まぁ、そうだね」

 ぼくは苦笑した。「あの」と言われても、その会社は身内の会社だ。
 亡き父が創立した「ドゥブレ商会」は、主にアジア――特に中国の輸入品を扱う貿易商会である。いまは兄が継いでいる訳だが、父がそこそこに顔が広かったお陰で、いまではそこそこに名の通る貿易会社となっていた。
 ミネくんは新興貴族の出だから、知っているのも当然だ。もしかしたら、彼女のお父上も兄の客の一人なのかもしれない。

「いいなぁ。アジアの話とか、たくさんして下さるんでしょうね」

 してくれるには違いないが、ぼくはあまり興味がない。
 兄とは基本的に合わないのだ。暗くて人付き合いの下手なぼくと違い、兄は明るくて社交的だ。その兄が父の跡を継いでくれたお陰でこうしてぼくは好き勝手勉強が出来ているので感謝はしているが、だからと言って苦手意識が克服される訳ではない。ミネくんに代わってあげたいくらいだ。

「有名人なお陰で、ぼくも会うのに一苦労だよ」

 軽口の間に鞄を閉じ、ぼくは再び二人に会釈をする。

「それでは、失礼します」
「ムッシュ・ドゥブレ、お土産話待ってますからね!」
「はいはい」

 ミネくんの言葉を軽くいなしながら、ぼくは研究室を出た。
 お土産話と言われても、ぼくたち兄弟でする会話など、きっとミネくんにとっては興味のない話だろう。
 兄との会食に気が進まないのは、それも理由の一つであった。
 そもそも性格が合わないのだから、会って話をしてもさして盛り上がらないのは、きっと兄も分かっているはずだ。それでもぼくと食事を、と言うことは、なにかしらの用があるに違いない。
 コンコルド広場は、ぼくがいまいるパリ大学から見て西、ルーヴル美術館の先、一区と八区の間にある、大きなオベリスクの据えられた広場である。
 兄が指定したレストランは、そこから更に西、凱旋門の方へ行ったところにある。
 通りにいる馬車を掴まえて、少し悩んでから、店ではなくコンコルド広場を行き先に告げる。
 いやに硬く、ところどころに傷や汚れのついているシートに押しつけるようにして背をもたれさせながら、考えているのはシリルのことであった。
 あれから三日、ぼくとシリルの間には最低限の会話しか存在していなかった。
 おはよう。学校に行ってくる。帰ったよ。食事が出来たよ。おやすみ。それくらいの簡単な言葉しか交わしていない。
 あれ以来、指輪のことが話題に上ることはなかった。
 まさかあの時のぼくの激昂を、シリルが忘れた訳でもあるまい。彼のことだ、もしかしたら気にしていないのかもしれなかったが、ぼくの方はそうは行かない。
 乗り合う人もいない馬車の中では、ぼくが今日何度目になるか分からない溜め息を零しても、咎める人はいなかった。
 コンコルド広場で馬車を降り、レストランに向かう。
 向かう途中で、久しぶりに凱旋門を見た。ぼくの生活は十区にある我が家と大学の往復のほか、だいたいの行きつけの店も東のマレ地区に固まっているので、西側に来ることがそうないのだ。
 夕暮れを受け、レリーフの凹凸を橙に光らせながら、凱旋門はその威容を誇っていた。
 いくら自分が生まれる前からそこにあったとは言え、遺跡のような構えの門が大通りの真ん中にそびえ立っているので、街中から視線を動かすと未だに驚いてしまう時がある。しかし、いまに限ってはその白亜の門も夕日のお陰で印象をやわらかくさせており、晴天やはたまた曇天の下で見た時の威圧感は和らいでいた。
 凱旋門の手前で折れて、目的のレストランに入る。ここはそれなりに歴史のある、ごくごく普通のフランス料理を出す店であった。

「いらっしゃいませ」

 ドアをくぐると、すぐさま近くにいたギャルソンが微笑みながらぼくに話しかけてきた。

「えっと……ドゥブレは来ているかな」
「ご予約は承っております。お連れ様はまだいらっしゃっておりませんので、お先におかけになってお待ち下さいませ」

 案内された席は、窓から離れた、店の奥まったところだった。ぼくと兄で景色を見て会話をすることもないし、こちらの方がぼくは落ち着く。
 先にワインでも頼んでいようかと思ったが、ふと外を見ると、店の前で馬車から降りた男が目に入った。
 黒々とした短髪をかき上げて額を出した、清潔そうな男である。目は切れ長の一重で、少々取っつきにくい感じがあったが、それを服装から感じられる社交性の高さが上手く覆い隠していた。
 数年前に会った時からまったく変わっていない、兄の姿だった。
 カラン、と店のドアが鳴る。ぼくの時のようにそこへ駆け寄ったギャルソンに、兄ははつらつとした声で名を告げた。

「テオドール・ドゥブレだ。連れは来てるか?」

 家の仕事を継いだ兄さんは、ぼくと違って、基本的に母の姓は名乗っていない。だからか、短い名乗りは、余計にぼくとは「違う」感じがした。

「ええ、いらっしゃってます」

 そう言って、ギャルソンがぼくのいる席をちらりと見る。それにつられてこちらを見た兄と、ふと、視線がかちあった。
 まさか目があって無視をする訳にもいかない。ぼくはぎこちなく彼に向かって手を挙げ、小さく笑みを浮かべた。引きつっているだろうが、無愛想でいるよりはましだ。
 ぼくを見つけるなり、兄さんはギャルソンを置いてすたすたと大股でぼくに近づいてきた。身長はぼくとあまり変わらないのだが、学生の時に運動をしていたからか、ぼくよりも体つきががっしりとしていて、眼前に立たれると少し圧迫感がある。

「よう。もう来てたのか」

 横柄な口ぶりも、相変わらずと言ったところだ。だが、兄さんの場合、そのぶっきらぼうで歯に衣着せぬ物言いが、性格のお陰かあまり嫌味に聞こえない。だから、ぼくの方も気を負わずに肩を竦めた。

「ついさっきね」

 椅子に腰かけた兄さんに、黙ってメニューを差し出す。それでぼくがなにも頼んでいないのに気づいたのだろう、彼はすぐさまギャルソンを呼び止め、あれこれと注文をしだした。
 ほどなく運ばれてきた白ワインがグラスに注がれるのを待ってから、ぼくは改めて口を開いた。

「久しぶり。父さんの葬式以来かな」
「そうか? その後にも会ってるだろう」
「そうだったっけ」

 父が亡くなった辺りは、ぼくも色々なことが重なっていたせいでいまいち物事の前後がはっきりしないのだ。
 乾杯してしばらくすると、前菜を始めに、様々な料理が運ばれてきた。どうにも組み合わせに頓着せずに好きなものを頼んだらしい、料理の数々には統一性がなかった。

「それで、仕事の方はどうなの」
「順調だ。中国の会社に長くいなくちゃならんことだけが、まぁ、欠点と言えば欠点だが」
「そう」
「やっぱりパリはいい。落ち着くよ」
「……ふぅん」

 ぼくは出張以外でパリ離れたことがないのでいまいち分からなかったが、やはり快活で悩みなどなさそうに見える兄さんでも、自分の国から離れた土地というのは慣れないものなのだろう。

「そう言えば、こっちには半月ほど前に戻ってきたんだが、彼女に会ったぞ」
「彼女?」

 誰のことだろうか。兄さんのお嫁さんなら一緒に中国に行っているはずだから、それ以外の誰かということになる。

「リゼットだよ」

 ぼくの察しの悪さに眉根をひそめた兄さんが告げた名に、思わずフォークを動かす手が止まった。

「……リズに?」

 聞き返した声は、我ながらうわずって震えていた。
 まさか、数日前のあの出来事の後に、その名前を聞くことになるとは思わなかった。
 ぎくりと手を止めたぼくに、しかし兄さんはなにも思っていないらしい、ああ、と言って空になったフォークをひらひらと中空に揺らめかせた。行儀が悪い仕草だったが、生憎とぼくにそれを指摘する余裕はない。

「新しい嫁ぎ先が商家だと言っていただろう? 新しくインド製の敷物を仕入れたいというところがあったんで会ってみたら、彼女がいたんだよ」
「……へぇ。元気そうだった?」
「いつでも辛気くさい顔してるお前なんかよりよっぽどな。ケイはお元気かしら? だとさ」
「……ふぅん」
「まったく、あんないいお嬢さんだったのに、お前ときたら本当に……」

 わざとらしく溜め息を吐いて、兄さんがワインを呷った。
 愛想笑いを返すのもなんだかおかしい気がして、ぼくは黙りこくったままそんな彼の様子を見ていた。
 笑えるはずもない。なにせリズ――リゼットは、ぼくの元妻なのだから。

「まぁ、それはいい。それよりな、うちの屋敷なんだが」
「屋敷? ル・ヴェジネの?」

 ル・ヴェジネというのは、パリから馬車で数時間ほどのところにある郊外で、ぼくたちの実家があるところだ。

「あの屋敷なんだが、取り壊そうと思ってな」
「えっ」

 驚いてテーブルから顔を上げると、訝しげな顔をした兄と目があった。どうしてそんなに驚くんだ、とでも言いたげな顔である。
 母が亡くなり、ぼくたち子供が自立し、そして父が亡くなってから、手入れの時以外は長らく無人になっている家である。いつかはそうなるだろうと予想はしていたが、それがまさかいまになるとは思っていなかったのだ。

「本気?」
「こんなことに冗談もなにもあるか。お前に報告してから業者やら、不動産の手続きやらやるつもりではいたが」
「……そう」
「それで、だ。ケイ」

 ワインで口を湿らせて、兄が続ける。

「家の整理をして欲しいんだ。なるべく早いうちに」
「別に、いいけど。でも整理って、どれくらいの範囲?」
「お前の部屋くらいで構わん。他は俺がどうにかする」
「そう……」

 確かに、父の書斎などは仕事に使えるものもあるかもしれないし、兄が手入れした方がいいだろう。曖昧に相槌を打ってから、ぼくは週末でもいいなら、と返した。

「充分だ。それじゃあ、頼んだぞ」
「……もしかして、それが用事?」
「ああ」

 用事でもない限り兄さんがぼくを呼ぶとは思えなかったが、それにしたってなんというか、あんまりな内容だ。
 嘆息に思われない程度に短くした息を吐いて、彼にならってワインを口に含む。
 微妙な酸味と甘さ、そしてふわりと立ち上る香りが心地よいワインだった。
 こんなぎこちない兄との再会の時ではなく、シリルと食事する時に飲めたらどんなに美味かっただろうか、と考えてしまって、思わず自分にうんざりとしてしまった。彼に謝ってもいないくせに、勝手なことを考えるものだ。

「……それで、奥さんはどう? 元気?」
「ああ。戻ってきていきなり服を買い込みだしたのには閉口したが」
「それくらい、許してあげたら?」

 言いながら、ぼくはへらりと気の抜けた作り笑いを浮かべる。
 どうせ兄はぼくの仕事には興味がないのだ。こういう時は、彼にしゃべらせるだけしゃべらせて、ぼくは相槌を打っているに限る。
 それからあれこれと話して、お開きになった。彼がいま奥さんと住んでいる小さな家は、店からなら歩いて帰れる距離であったが、ぼくが馬車を拾って帰ると言うと、途中まで乗せてくれと言って相乗りしていた。基本的に、兄は面倒くさがりなのだ。
 馬車から降りると、アルコールを孕んだ体に、夏が近くなって少し生温い風が妙に心地よかった。普段ならば煩わしく思うであろうそれも、酔っているからこそ許容出来るものだ。

「戻ったよ」

 幅の狭い階段を上がり、小さな踊り場からドアを開けても、中から反応はなかった。
 リビングを見ようか悩んで、寝室を覗く。するとそこにはぼくの予想通り、眠るシリルの姿があった。
 共有で使っているベッドで、シリルは丸くなって眠っていた。まるで子供だ。

「……シリル」

 青白い頬に手を伸ばし、その表面を指の背でさらりと撫でると、ひさしのように垂れる睫毛が震えて、ゆっくりと瞼が持ち上がった。

「ケイ……」

 ぼくの名を囁く唇に短いキスをくれてやってから、ぼくは寝起きのシリルに、週末屋敷へ私物の整理をしに行くこと、出来ればついてきて欲しいことを伝えた。

「ん……分かった……」

 説明をきちんと聞いているかも危うい、とろんとした顔でそう返事して、シリルは再び枕を抱え込んで眠ってしまった。元々寝てばかりいる子だが、それにしたって素っ気ないというか、ぼくの帰還より睡眠を優先させるのかと思うと、やはりさびしかった。

「おい、なにか食べ……ないよな、きみは」

 そもそも、吸血鬼に人間が食べるような食事は必要ない。ぼくの血さえあれば、この麗人は生き長らえることが出来るのだ。

「やれやれ……」

 つぶやいた言葉は、シリルに対するものでもあり、そして週末に決まってしまった予定に対するものでもあった。
 ル・ヴェジネの家――。正直、あまり気は進まなかった。
 あの家には、色々なものを置いてきすぎた。幼かった頃のなにもかもを。

「……風呂に入ろう」

 だが、憂いていても仕方がない。気持ちを切り替えるように、わざと声に出してつぶやきながら、鞄を置き、ジャケットを脱ぐ。
 だが、浴室に向かいながらも、ぼくのもやもやとした気持ちはなかなか晴れることがなかった。

 ◆

 それから二日。週末は、あっさりと訪れた。
 早めに昼食を摂ったぼくとシリルは、着替えを済まし、事前に連絡をしていた馬車を待っていた。
 リビングで本を読んで時間を潰していると、近くから車輪の転がる音と、馬の駆ける音が聞こえてきた。聞き慣れた音ではあったが、家の近くで音が止まったのを考慮するに、ぼくが呼んだ馬車だろう。
 玄関から身を乗り出し、狭い階段の下を伺うと、やはりアパルトマンの前にぼんやりとだが馬車の車輪が見えた。

「シリル、準備は出来たか?」
「うん」

 振り返ると、シルクのシャツにタイを巻いたシリルが立っていた。いやにラフないでたちだったが、特に誰に見せる用がある訳でもないし、特に問題はないだろう。
 対するぼくは、ジレこそ着ていないが、シャツに薄手のフロックコートという格好だった。日が沈むとまだ涼しい風が吹く時もあるし、暑ければコートを脱げばいい。

「それじゃあ、行こう」

 空のトランクの取っ手を握って、部屋を出る。
 私物を持ち帰るためのトランクだが、恐らく大した出番はないだろう。持って帰りたくなるような過去があの場所にあるとも、さほど思えなかった。
 あらかじめ行き先を伝えていたのもあって、御者に挨拶をしてから乗り込むと、四輪の馬車はすんなりと走行を始めた。
 お世辞にも広いとは言えない一列の座席の隣で、シリルはなにを考えているか分からないいつも通りの白い顔で、ぼんやりと外の流れていく景色を眺めていた。
 そういえば、彼と遠出するのは初めてのことだった。
 だが、それも上手く喜べない。
 これがただの外出だったら、ぼくだって彼に話しかけたり、街の喧噪から離れ、次第にのどかになっていく外の景色を楽しんだりするだろうが、なにせ行く先にはぼくの過去が待ち受けているのだ。――忘れたかった、忘れたふりをしていた過去が。
 ル・ヴェジネの辺りに入ると、森の中にぽつんと小さな屋敷があるのが見えた。古ぼけた赤茶色の屋根。ぼくの家だ。
 前にある窓を開けて、そこから御者にあれこれと道案内して屋敷の前まで向かう。
 がたん、と大きな振動ののちに止まった馬車から降りると、ぼくは礼の言葉とともに、また夕刻になってから迎えに来てくれるよう頼んだ。
 馬車が去っていくのを見送ってから、目の前の屋敷に向き直る。
 さほど大きくもない、この辺りにしては小さな部類に入る屋敷だ。
 貿易で身を興した父――ヴィクトル・ドゥブレの所有していた家である。
 屋敷は、年を経て古くなった印象こそあれ、荒れている様子はなかった。やはり、定期的に人の手が入っているからだろう。人が住んでいない家と考えると、充分な保存状態だ。
 持っていた鍵を差し込み、回す。
 鍵を持ってこそいたものの、実際に使うのはこれが初めてのことだった。なにせ、中に人がいる時はここは開いていたのだ。常に使用人がいた家が無人であるのを見るのも、そういえば初めてかもしれない。
 戸棚に入れたきりの古い鍵であったが、扉はきちんと開いてくれた。
 大きな扉を開くと、中は少しほこりっぽかった。広間の窓でも開けた方がいいだろう。

「シリル、おいで」

 シリルに声をかけてから、恐る恐る玄関から廊下へ足を踏み出してみる。いささか砂っぽい感じこそすれ、廊下のタイルは欠けも汚れもなく、きれいなものだった。恐らく、こちらに戻ってくる頃合いに兄が人を呼んで掃除をしたのだろう。
 廊下を歩き、大広間に向かう。無人の広間は、長い食卓こそ健在であったが、誰もいないからか、その大きさがやけに侘びしい。
 広間の窓を開けて換気をすると、ぼくは少し考えてから、とりあえず書斎へ向かうことにした。
 兄には自分の部屋だけでいいと言われたものの、書斎になにかいい本があったら失敬しようと思ったのだ。――それに、いきなり自分の部屋に向かうのに、抵抗があったのである。
 広間の先にある書斎は、少しかび臭かった。湿気がこもっていたのだろう。
 本が無事ならいいのだが、と思いながら、小さな窓を薄く開ける。
 事務所は別に構えていたから、ここには帳簿の類はない。だが、書棚に並ぶ単語は、ほとんどがぼくにとって興味のないものであった。
 貿易だとか経済だとか、それらに関する法律などの単語が並ぶ書棚にざっと目を通し、アジア圏の文化に関する本を見つけて取り出す。ぱらぱらと中をめくると、父がやったのか、数ヶ所ペンで線が引かれている部分があった。
 視線を感じて顔を上げると、なにをするでもなく書棚を見つめていたはずのシリルが、じっとぼくを見つめていた。

「ここがケイの部屋?」

 書棚に囲まれた中で、シリルがぽつりとつぶやく。部屋に舞う小さなほこりがきらきらと日光に反射して、彼の周囲が輝いているように見えた。

「いや、違う。ここは父の部屋で……ぼくの部屋は、さっきの広間を挟んで反対だ」
「行かないの?」
「……行くともさ」

 書き込みのあった本を戻しながら、ぼやくように返す。
 兄にこの屋敷を処分すると言われた時から、ぼくはなんとも言えぬ相反する感情を抱えていた。
 行きたくないという率直な感情と、行かなければならないという義務感である。
 部屋を片づけるなんて、自分以外に出来る人間がいないことだ。そう思いながらも、行きたくなかった。来たくなかったのだ、ここへ。
 だが、いつまでも逃げている訳にはいかないだろう。過去から目を背け、シリルのことだけを考えているのはとても楽だが、それは彼に対しても失礼な行為だ。

「行こうか」

 言うと、決心がついた。
 本を読んだ時についたほこりを払い、書斎の窓と扉を閉めて広間の前を通りすぎる。そのまま先を行ったところにあるのが、ぼくの部屋だ。

「……ここが、ぼくの部屋だ。反対側が、兄さんの部屋」

 一応説明してやってから、扉を開ける。
 中は、ベッドのマットレスこそ外されていたが、それ以外はぼくが使っていた頃のままのようだった。
 ブラウンのじゅうたん、買い与えてもらった大きめの本棚に机、それから戸棚とベッド。それだけだ。だが、このなんの変哲のない部屋こそ、ぼくの少年期を育てたものであった。

「大学に行く前は寄宿舎にいたから、ここにいたのは本当に子供の頃だけなんだ。……それから、大学に通いだして一人暮らしをするまでの、短い期間だけ」
「ふぅん」

 先ほどの書斎よりも背の低く細い本棚には、ぎゅうぎゅうに本が詰められていた。
 百科事典や図鑑に、昔読んだ冒険小説。試しに小説の一冊を手に取ると、紙の端こそぼろぼろになっていたものの、虫食いなどはなく、読むのには支障がなさそうだった。

「……懐かしいな、本当に」

 机の隅には、ぼくが大学に進学する際、持ち出そうか悩んだ挙げ句、結局持って行かなかったものが置いてあった。
 写真立てだ。まだ幼い兄と若かった父が、一人の女性を挟んで行儀よく立っている。
 色彩のない写真でも、否、だからこそと言えばいいのか、黒い髪が印象的な女性である。大きいが目元のすっきりとした一重の瞳に、やわらかそうな唇には笑みを浮かべている。ドレスを纏った細い腕には、小さな赤子が抱えられていた。
 ぼくが産まれてすぐの頃に撮った写真である。そして、ぼくが唯一持っている、家族が揃った写真でもあった。

「母さん、美人だろう? 江花ジャンファと言うのだけど」

 ぼくがなにを見ているのか気づいたのだろう、隣に立つシリルも、ぼくと同じく写真立てに視線を向けていた。

「……ぼくが三歳くらいの時かな、病気で亡くなってしまったんだけどね。……優しい人だったよ。中国で生まれ育った母にとっては慣れない土地だったろうに、いつも穏やかに笑っている人だった」

 写真立てに手を伸ばす。写真の中の母は、これまでに幾度も見た時とまったく同じ笑顔をしている。

「大学に行ってから髪を伸ばすようにしたんだがね、短いのが似合わないのもあるんだが、……白状すると、伸ばしていると少し母に似ているんだ、ぼく。顔がどうの、と言うより、雰囲気だけなんだがね」

 ちらりと隣を見ると、シリルは関心があるのかないのかよく分からない、無表情に近い顔をして、それでもぼくをじっと見ていた。その無言の眼差しを相槌と受け取って、ぼくは再び口を開く。

「最後にここに来たのは、まだ父が生きていた時かな。……ぼくが……」

 なんとなく母の視線を受けながら話を続けているのが苦しくて、写真立てを伏せる。

「ぼくが、女性を連れてきた時だ」

 言ってしまうと、安堵している自分がいるのに気がついた。
 喧嘩をしてから――そうとすらシリルは認識していないだろうが――ずっと言わなければいけないと思っていた話だ。

「奥さん?」

 そう言いながら、立ちっぱなしでいるのに疲れたのだろう、シリルはベッドの柵に細い腰を預けさせた。

「もう、とっくの昔に別れたのだけどね」

 体を反転させ、彼にならって机に体をもたれかけながら、ぼくは一つ溜め息を吐いた。

「リズ……リゼットは、ぼくが大学の頃に知り合った女性だ。院に進もうと――ゆくゆくは研究員として大学に残ろうと決めた三十前に結婚をしたんだが、二年ほどしか続かなかった」
「どうして?」

 率直だからこそ、シリルの言葉は胸を突いた。

「……ぼくがあまりにも自分勝手で、そして保守的だったから……かな。研究に打ち込むぼくを、彼女は最初の頃こそ歓迎していたが、次第につまらないと思うようになっていたようだった。……それに」

 そう。それに、まだ、他にも理由がある。直接的には言われていないが、恐らくは彼女にとっては大きな理由が。

「ぼくが子供を欲しがらなかったから。それが、彼女は不満だったのだと思う」
「……なぜ?」
「なぜって、なぜぼくが子供を欲しがらなかったか、って聞きたいのかい? ぼくと一緒にいるきみが?」

 思わず、ふっと笑いが漏れた。
 シリルとしては特に意図せず発している疑問なのだろうが、ぼくには少々白々しいものに感じられたのだ。
 なぜ、だなんて、ぼくに抱かれているのによく言えたものだ。

「結局、ぼくは自分の……、嗜好だとか、そういうものを押し殺して、人並みに結婚生活くらい送れるだろうとたかをくくっていたのだが、無理だった訳だ」

 ある日、大学から帰ってきたぼくを、リゼット――リズが沈痛な面持ちで出迎えた。
 まだ、あのアパルトマンではない、もう少し広いところに住んでいた時だ。
 鞄を置きながら、どうしたんだい、とぼくは彼女に尋ねた。

『……ねぇ、ケイ。あなた、私といて楽しい?』

 美しい赤茶の髪が、傾げる首にならってさらりとなびいた。
 なにを言うか、楽しいとも。そう見えないかな。そんなことを返したと思う。
 だが、リズの表情が晴れることはなかった。ばかりか、ますます暗くなっていって、一言、こう言ったのである。

『私はね、……たまに、つらくなる時があるの』

 そうか、とぼくは言ったと思う。残念だ、とか、そんな取ってつけたような、薬にも毒にもならないような言葉を吐いたと記憶している。

『ごめんなさい、私……』

 そう言って、リズが顔を覆う。どうしたらよいのか分からなくて、やっとのことで彼女の肩を抱いた手は、我ながらぎこちないものであった。

『きみが謝ることはないよ』

 そんなことを言いながらも、ぼくは背の低い彼女の髪や頬にキスをすることも出来ないでいた。そんなことをしても、きっと彼女にとっては空々しく思えるだろうと考えたからだ。

『ぼくがいけないんだ……ぼくが……』

 そう、結局ありとあらゆる意味で、ぼくの努力が足りなかっただけだ。
 そう囁きながらも、ぼくは謝ることも、これからの態度を改めるからと彼女に縋りつくこともしなかった。出来なかったのではない。しなかったのだ。

「女性がまったく無理な訳じゃないんだ。だから、大丈夫だと思っていた。けれどもやっぱり、子供となると、ぼくには到底考えられなかった」

 なんだか、恐ろしかったのだ。ぼくの血を分けた生き物を育てることが、ぼくにはどんな研究課題より難題に感じられたのである。
 彼女は、ぼくに対して子供が欲しい、とは一言も言わなかったし、ぼくの嗜好――つまり女性を愛することが難しいことにもなにも言及してこなかった。恐らく感づいているであろうに、だ。
 彼女は、ぼくを責める言葉を一つも零さなかった。本当に、出来た女性だったのだ。
 ただ――いや、だからこそ、ぼくは一緒にいられなかった。いる資格がなかったのだと思う。

「それだけ。……本当に、それだけだ。情けない話だから、あまりきみには言いたくなかったんだが」
「でも、事実でしょ」

 いつの間にか床に落としていた視線を上げると、向かいでシリルがぼくをひたと見つめていた。
 瞳は平素のように眠たげで、表情はなにを考えているかひと目では察しにくい。それでも、声にはどこか、強さがあった。

「話してくれて、嬉しい」
「……シリル」

 とっ、と勢いをつけて、シリルがベッドの柵から身を離した。
 そのままふわふわとした足取りでぼくに近づいてきたかと思うと、シャツに包まれた長い腕が動いて、不意にぼくの顎を取った。
 彼の方が身長があるから、そうされるとどうやったってぼくの顔は上を向く。
 美しい顔が近い。目をつぶらなければ、と思っているのに、咄嗟のことに驚いてしまって、目は見開いたままだった。
 鼻先が擦れて、近かった顔が更にぼくに寄る。頬骨の辺りに皮膚が触れて、ぼくの視界いっぱいに、彼の伏せた両目の睫毛が映った。

「……ありがとう」

 ぼくに華麗に口づけて、吸血鬼はそう囁いた。
 口がぽかんと開いてしまってなにも返せないぼくを放って、シリルはそのままぼくの顎を取った手で写真立てを掴み「これは持ち帰らないとね」と続けた。

「え、あ」
「だって、親の写真でしょう?」
「それはそうだが、……いや、まぁ、いいや……」

 あまり持ち帰る気はなかったのだが、シリルに言われてしまうとどうにも拒みがたい。
 それから、シリルはがさがさと部屋の中を漁り始めた。なににも興味がなさそうな彼にしては、珍しいことだった。
 本棚から本を出しては戻し、かと思えば戸棚にしまっていた卒業証書と成績簿を引っ張りだして、次席という単語を見つけて伏し目がちの目をぱちぱちと瞬かせた。

「すごいね」
「勉強しか取り柄がなかっただけだ」

 肩を竦め、開かれた成績簿から目を逸らすと、羊皮紙をくるくるとまとめて筒状にしながら、シリルがぽつりとつぶやいた。

「捨てるの?」
「とっておいても仕方ないだろう、そんな昔のもの」
「さっきの小説は持ち帰るのに?」

 最初に手に取った冒険小説のことを引き合いに出しながら、シリルが首を傾げさせた。

「……あれはいいんだ、懐かしくなって読み返すかもしれないし」

 それに――いまのぼくには、きみがいるじゃないか。
 続きかけた言葉を飲み込んで、ぼくは代わりにひらひらと手を振った。

「写真立てを持ち帰るので、充分だよ」
「そう?」
「そう」

 言うと、シリルが再び目を瞬かせて、それから一つ、眠たそうにあくびを出した。
 あれこれと物を出して眺めているうちに、窓からはいつの間にかオレンジ色の光が差し込むようになっていた。日が長くなってはいるものの、そろそろ日没――夕刻の頃合いだ。
 そんなことを考えていると、外から蹄の鳴る音がした。そろそろだろうと馬車が迎えに来たのだろう。

「シリル。馬車も来たようだし、そろそろ行こう」

 写真立てと本が一冊しか入っていないトランクの蓋を閉じ、彼に声をかける。まだなにか持ち帰れないかと本棚を漁っていた彼が、出しかけていた本を戻しながら、もういいの、と言った。

「ああ、大丈夫だ」

 そんなにあれもこれもと選んでいたら、この部屋を丸ごと持ち帰らなければならなくなる。トランクを持つと、ぼくは彼よりも早く自室を後にした。

「ドア、閉めておいてくれ」

 後ろを追いかけてくるシリルにそう指示して、古ぼけた廊下を歩く。外に出る前に広間へ寄り、開け放っていた窓を閉めて鍵をかけてから、元来た道を戻り、玄関へ出る。
 この屋敷へ来た時のように鍵を回すと、ようやく寂寥感のようなものが胸に湧いた。
 だが、それも今更のことだ。過去を振り返るのも悪いことではないが、ぼくは前を向いて歩きたい。
 過去のことを忘れたいと言うのも、多少はある。いまはまだ、過去のことを全て肯定し、受け入れる自信はなかった。
 それでも、少しずつでもいい、忘れたふりでもいい、前を向いて日常をこなすのもそう悪いことではないと、そう思うのだ。
 振り返ると、やはり屋敷の門の前には朝乗ったのと同じ馬車が停まっていた。

「行こう」

 言うと、シリルが細い顎を小さく上下させる。それだけで、いまのぼくには充分すぎるほどであった。

「もうよろしいですか?」

 御者へ近づくと、壮年の男性がぼくに声をかけてきた。

「ああ。朝迎えに来てもらったアパルトマンの前まで頼むよ」

 ドアを開けて、後から来たシリルを先に乗せてから馬車へ乗り込む。しばらくの後に、馬の嘶きとともに、馬車はゆっくりと動き出した。

「シリル。今日は疲れただろう? 帰ったら外でなにか……」

 外でなにか食べよう、と続けようとしたぼくの肩に、こつん、と彼の肩――と言うか、上腕の辺りが触れた。
 最初はやはり遠出で疲れたのだろう、と思ったが、次第にずるずるとぼくに全体重を預け、小さな頭部をぼくの頭頂部に寄せた辺りで、頭のどこかが「なにかがおかしい」と警鐘を鳴らした。

「……シリル?」

 疲労して眠いのかと思ったが、そうではない。
 目は伏せられていたが、しかし、浅い呼吸は、呼吸の気配すら感じない普段の彼からは想像の出来ないものであった。
 普段から白い顔が、いっそう青白くなっていた。抱き留めた体は、シャツ越しにうっすらと汗をかいているようで、いやにひんやりとしていた。

「シリル!?」

 ぼくが叫んだのに気づいたのか、御者がちらりとこちらを振り向いたのが、小さな窓越しに見えた。
 小さく首を振って問題ないことを彼に伝えながらも、しかし、ぼくの心臓はシリルに負けず劣らず早鐘を打っていた。
 急いで着ていたコートを脱いで、彼の肩にかける。情けないことにぼくの方が肩幅が細いせいで、コートは少し窮屈そうであったが、なにもかけないよりましだろう。
 御者が前を向いたままであるのをいいことに、投げ出されたままの手を、そっと握る。やはり、セックスのさなかでもあまり汗をかかない彼にしては珍しく、手のひらにはうっすらと汗をかいていた。
 少し悩んでから、身を乗り出して前にある窓を開ける。御者を呼び止め、ぼくは行き先を変更してもらうよう告げた。

「十区ではなく、十一区の辺りで降ろしてくれ」
「あの辺りは路地も狭くて、場所によっては停められませんが」
「近くで構わないから」

 そう言ってから窓を閉じ、再び横を見る。ぼくが身を乗り出している間に座席に横になってしまうのではないかと思ったが、彼は彼で自制の心でも働いているのか、それともそちらの方が落ち着くのか、体はまだぼくにもたれかかったままであった。

(……どうしよう)

 彼が体調を崩すのを見るのは、初めてのことだった。
 行き先を変えたのも、そのためだ。
 ぼくには吸血鬼の体調不良の理由がまったく思いつかない。そんなぼくが一人で狼狽したり、医者を呼んだりするよりは、彼の元いた場所――それこそ実家と言ってもいい、クラブに行って聞いた方が確実だろうと思ったのだ。
 もしかして、数日前から体調が思わしくなかったのだろうか。最近いやに眠っていると思ったが、そのせいだったのではないだろうか。今日の外出だって、ぼくが言うからついてきてくれたものの、芳しくない体調を押してのものだったのではないか――そう考えると、胸が痛んだ。
 ぼくはどうしようもない愚か者だ。一緒に生活しているのに――シリルと契約し、クラブから引き取った時にだって、彼のことをパートナーだと言ったのに、こんなことにも気づかなかったなんて。
 パリへ戻る道は、永遠のようにも感じられた。
 幸運なことに、次第に見慣れた街並みへ馬車が入って、それからセーヌ川沿いを走るようになっても、シリルの体調は馬車に乗った時から変わらない様子であった。よくはなっていないが、悪くなっているようにも見えない。

「ああ、この辺りでいいよ」

 細い路地に入る手前で再び御者に呼び止めて、馬車を止める。本当はもっと近くまで馬車を寄せることも出来ただろうが、会員制のクラブのそばまで行くのも危険だ。仕方がないが、ここからは彼をぼくが運ぶしかない。

「……手伝いましょうか?」
「結構。これ、でも……これくらいは……」

 肩に彼の腕を回し、腰を手で支えて馬車を降りる。御者の心配はありがたかったが、ここから先は他人の手を借りる訳にはいかない。虚勢を口にしながら、ぼくは力の抜けた男の体の重さを腕に感じていた。
 彼を抱きしめたり、抱き留めたことはいままでも何度かあったが、意識があるのとないのとでは重さが違うのだと、身をもって味わうこととなった。
 代金を払ってから、トランクという荷物があったことを思い出す。仕方なく、腰を支えていた手でトランクを持つことにして、彼の体を肩だけで支えることにすると、ますます御者は心配そうな顔をした。

「今日はありがとう。それじゃあ」

 このままこの場であたふたしていたら、彼はぼくの制止も聞かず手を貸してくれてしまうだろう。慌てて礼の言葉を述べてから、ぼくは一目散に――と言いながら、ひどく重い足取りで、クラブへと向かった。
 クラブまで百メートルもないだろうが、ル・ヴェジネからパリへの道行きと同じくらい、長い時間がかかったように感じられた。これが立場が逆だったら、きっとシリルはもう少し簡単にぼくのことを運んだだろう。だが、身長差とぼくの非力さが、足を遅くさせる。
 のたのたと進んで何分が経っただろうか、ぼくはようやく、クラブの入り口である細い階段を下りていた。
 ただ引きずって歩いているだけでも大変だったが、階段を下りる時が一番大変だった。なにせ、ぼくに体を預けているシリルの方が足が長いのだ。足下を見てゆっくり下りないと、彼の足先に時分の足を引っかけてそのまま階段を転がり落ちそうになった。たった数段が、えらく長いもののようにすら思えた。
 階段を下りて現れた、狭いスペース。外からは見えない場所に入り込んで作ってあるそこの奥にある、まるで裏口のような鉄枠の木戸が、クラブ「プライベート・ブラッド」の入り口である。
 店の開く時間は、きちんと聞いたことはなかったが、日が沈んでからだ。
 先ほど見た空は、まだ赤かった。時間的には少し早いかもしれないが、ことは緊急を要している。ぼくは不躾なのを承知で、その木戸をどんどんと手で叩いた。
 開けてくれ、吸血鬼が倒れたんだ、と叫べたらもっとよかったかもしれないが、人通りのない路地とは言え、誰が通るかも分からないところで、そんなことを言う勇気はぼくにはない。しかし、運よくと言うべきか、しばらくどんどんと叩いていると、戸が内側から開かれた。
 いつもドアの前に立っている、あのブルネットの女性だ。いつも無表情に見える顔は、ぼくの無礼のせいか、更に冷たさを増しているように見えた。

「恐れ入りますが、ここに入るには資格を――」

 女性は、ぼくがシリルを抱え込んでいても、表情を変えることはせず、いつも通りの言葉を口にしようとした。

「それくらい、分かってる! とにかく入れてくれないか、ぼくの……」

 焦れて、思わずぼくが彼女の言葉を遮った、その時であった。
 女性の黒いスーツの細腰を、ついと小さな手が軽く押しやった。そのまま女性を押しのけるように身を乗り出してして、少年ががぼくの顔をちらりと覗き込んだ。
 さらさらの濃い金髪。切り揃えられた前髪は眉の辺りまで垂れていたが、重くならない程度に梳かれていて、その下では鮮やかな黄緑色をした大きな瞳がきらきらと不敵に光っている。
 小さな鼻はつんと上を向いていて、同じく小さな唇はうっすらと赤く色づいている。
 文句のない美少年だった。――ただ一つ、異様なほどの威圧感を備えている以外は。

「会員証の確認も合い言葉もいまは結構。この方はうちのお客様だ。保証する」

 言いながら、少年は女性とぼくの間に立ちはだかった。

「……ロジェ」

 可愛らしい少年の名を、震える声で呼ぶ。
 彼――ロジェは、この見た目に反してこの店を束ねている人物である。ぼくがこの店の会員権を得る際に店の仲介人として出てきたのも、そしてぼくがシリルとの契約を交わす際に説明をしてくれたのも彼で、以来ロジェには様々な面倒を見てもらっている。
 ロジェが、にやりと小さな口の端を吊り上げた。外見はひどく愛らしいだけに、そういう表情をするとそぐわないくせに似合っていて、いやに恐ろしく見える。

「どうやら急ぎの用みたいだ。ねぇ、センセ?」
「……その通りだ」
「ま、とりあえず店に入りなよ」

 そう言って、ロジェが小さな手で木戸を内側から支えるように開いた。不遜な態度ばかりなのに、流石クラブを取り仕切っているだけあると言うべきか、こういうところは気が利いている。
 一度店に入ってしまうと、これまでの疲労感がどっと押し寄せてくるようだった。思わずしびれる手で持ち続けていたトランクを床に落とすと、ロジェがぱん、と大きく手を叩いて、辺りへぐるりと視線を投げかけた。

「誰かいるか!」
「はい」

 入り口を少し進むと、大ホールがある。その奥から、足音を響かせて白シャツに黒いズボン姿の長身の若い男が出てきた。恐らく、ここのギャルソンかなにかだろう。

「この子を上の階に運んでくれる? ええと、最近空きになった部屋があっただろう、カミーユの部屋の横だ。そこでいい」

 シリルを預けるのも抵抗があったが、ぼくの体力では彼を背負って階段を上がることなど至難の業だ。仕方なく、青年にシリルを預けると、彼はシリルをおぶって軽々と階段を上っていってしまった。

「さ、行くよ」

 その後を、ロジェが追う。慌てて感覚のない手でトランクを抱え直し、階段をのたのたと上がると、並んだドアの一つにロジェの小さな背中が消えていくのが見えた。
 部屋に入ると、シリルがベッドの上に座らせているところであった。
 意識がない訳ではないらしいが、シリルはベッドの頭に付けられた鉄枠に背をもたれかさせ、ぐったりとしていた。
 部屋は、狭いのもあるが、それにしたって物がなかった。壁にクローゼットがあるほかに、ベッドしかない。

「ありがとう。お前はもうフロアに下りていいよ。時間が来たら、クラブを開けるようにみんなに言って」

 ロジェにそう言われると、青年は無口なたちなのか、ぼくとロジェにぺこりと会釈をして去っていった。
 それを見届けたロジェが、後ろ手でドアを閉める。それから、溜め息とともに言葉を吐き出した。

「ここ、シリルが使ってた部屋なんだよね。……で、先生が来た理由は、なんとなく分かるけど」
「出先でシリルが急に具合が悪くなってしまったんだ。意識はあるようだが、ぐったりとしてしまっていて」
「なにも思いつかないの、先生」

 そう言って、ロジェがシリルに近づいた。表情が険しい。

「特に、なにも」
「……それ、本気で言ってる?」
「どういうことだ、ロジェ」

 ぼくもシリルに近づき、顔を覗き込むと、やはり馬車に乗った時から変わらず青白い顔をして、呼吸も浅いままだった。
 首元にタイをしたままだったのに気がついて、手を伸ばしてタイを緩める。少しだが、呼吸が落ち着いたように見えた。
 ひくりと瞼が動いて、シリルがうっすらと瞳を開いた。

「シリル!」

 少しは楽になったのだろうか、と安堵していると、顔を寄せていたぼくの襟元に手を伸ばすように、のろのろとシリルが腕を持ち上げさせた。

「……どうした? つらいなら、横に……」

 なにかしたいことでもあるのか。だが襟元に手を伸ばすなんて、まさかキスでも仕掛けるつもりなんじゃないだろうか。
 ロジェがいるのにそれはいささか恥ずかしいなぁ、と思っていると、襟元を掴んだ手が途端に力を増して、ぐいとひと息に下方へと動いた。

「え、あ、うわっ!」

 両襟を捕まれて引っ張られたのだから、ぼくの体はなすすべなくベッドへと倒れ込む。驚いてつぶっていた目を開くと、その一瞬の間にぐるりと体を反転させたらしい、ぼくの腰の辺りにまたがるようにして、シリルがぼくを見下ろしていた。
 ぼくの貸したフロックコートを羽織ったままの格好で、シリルがじっとぼくを見つめている。なんだか、見たことのない、底のない湖のような、少し怖い目をしていた。

「……シリル?」

 どこにそんな体力が残っていたのか、シリルの手が再び動いて、ぼくの首に巻かれていたスカーフを取る。ぱさり、という音とともにベッドの下に落ちていったスカーフを横目で見送ってから、慌ててロジェの方へ視線をくれると、彼は小さな体を壁に預けて、じっとぼくたちの方を見ていた。
 ロジェが、呆れたように肩を竦める。

「あのね、先生。これは多分」

 ロジェが言葉を区切ったところで、シリルが動いた。
 再び、シャツの襟元を掴まれる。かと思うと、勢いよく襟を開かれた。
 幸いボタンは飛ばなかったが、それでも力任せに襟元を開かれたせいで、ぶちぶちと糸のちぎれる音がする。
 は、とシリルが息を吐く。先ほどまでの浅い呼吸を思わせる、荒い息だった。
 そのまま、彼がぼくの首筋に鼻先を埋めて――その先は流石にぼくにも予想がついた。

「ぐ、あっ……!」

 思わずシーツを逆手で掴んだその瞬間に、彼の鋭い牙が刺さっていった。
 一切の遠慮も仮借もなく、牙が肉に沈み込んでいく。

「……栄養失調だよ。血が足りなかったんだ」

 きつく目を閉じ、痛みを逃がそうとしているぼくの耳に、ロジェの声が響いた。

「い、た……」

 ずるずると音を立てて、血を啜られる。何度も血を吸われていたが、それでもこの痛みだけはどうしても慣れることがなかった。
 それに、日頃の吸血よりも、今日のそれは痛みが強いように思えた。
 恐らく、シリルに自制が利かなくなっているからだろう。普段の彼は必ず血を吸う前にぼくに「食べるね」と前置き、噛む場所を唾液で湿らせ、ゆっくりと牙を沈ませて静かに血を吸うのに、こんなに荒々しく噛みつき、大きな音を立てて血を啜るなんて、少なくともこれまではなかったことだ。

「シ、シリル……痛……」

 あまりの痛さに、上半身が起き上がっていた。
 彼の行動を止めようと手を伸ばしてみたものの、力が入っていないせいで情けないほどに腕が泳いでいた。その手を、シリルが流麗に取る。まさか令嬢にするように手の甲に唇でも落とす気かと思ったら、そのままぼくの血で真っ赤になった口をぱくりと開け、指を飲み込んでしまった。

「こら……っ、うあ……」

 なにをするつもりなのかと思っていたら、くわえられていた指の根元にも鋭い痛みが走った。どうやら、本当に理性がなくなっているらしい。

「……」

 ぼくの手を解放したシリルが、思案するように自らの唇に細い指を押しつけた。
 血で汚れた唇に、華奢な指先が触れる。
 きっと、シリルは夢見心地で、この行動にも大して意味はないのだろう。けれども、血で赤く染まった唇をなぞるように触れる指先はなんとも淫靡で、思わず、痛みも忘れて見入ってしまう。
 唇から指先に移った血を、尖った舌先がゆっくりと舐め取っていく。それから、指先の血からは興味を失ったらしいシリルと、目があった。

「シリ……」

 名を呼びかけたところで、腕が伸びてくる。ぼくを抱きしめるためではない。ぼくの肩をベッドに押しつけ、動けなくさせるために。
 勢いをつけてベッドにぼくを縫い止めたシリルが、再び首筋に顔を埋めてくる。先ほど噛まれたところからまだ出血している血を舐め、啜ったかと思うと、今度は反対側に噛みつかれる。
 もう、抵抗する気は起きなかった。ぼくに出来ることと言ったら、ただひらすら、この痛みが去れと祈ることだけである。
 ぼくとシリルの荒い息遣いと、彼が血を啜る音ばかりがする部屋に、はは、と乾いた笑みが染み渡った。ロジェのものだ。

「シリル、本当に腹が減ってたんだ」

 ずる、じゅる、と音を立ててから、シリルの顔がゆっくりと離れていった。
 かと思うと、そのままぼくのすぐ隣に頭を沈めてしまった。どうやら、食欲が満たされた途端に、眠気に襲われたらしい。
 確かに今日は、夜行性と言っていい彼に早起きをさせてしまった。それに、栄養の足りない状態で遠出した訳だから、疲労困憊しているのだろう。じくじくと痛む首を無視して、軋む腕で彼の頭を撫でる。ふわふわとした髪の感触にどこか安堵しながら、ぼくはようやくロジェに言い返した。

「笑い、ごとじゃ、ないだろう……」
「ほんと、笑いごとじゃないよね、先生」

 返ってきた声は、この愛らしい少年から発されているとは思えないほどに低かった。

「最初にあんたに増血剤をやったのは、あんたのためでもあるけど、あんただけのためじゃないんだよ。定期的に薬を飲めって言ったのは、つまり定期的にシリルに血をくれてやれ、ってことだ。……それくらい、分かってると思ったんだけどね」

 痛みでどこか浮つき昂ぶっていた頭に、ロジェの硬い声が殴りつけてくるように響く。
 革靴がこつこつと音を立てて、ロジェがベッドへ近づいてきた。かと思ったら、ぐい、と小さな手が、先ほどシリルがしたようにぼくの襟元を掴んだ。
 引っ張られて、シーツに押しつけていた頭が浮く。

「吸血鬼たちは人間の食事では腹は満たされない。腹の中はいっぱいになっても、それが栄養になる訳じゃないんだ。それとも、シリルに人並みの生活をさせて、満足してたって訳?」

 か弱い手に信じられないほどの力を込めながら、しかし、ロジェの言葉は淡々としていた。だからこそ余計に、その言葉が突き刺さる。

「ぼくは……」

 違う。確かに彼にぼくが食べるような食事を食べさせたりはしていたけれども、そんなつもりはなかった。
 だが――実際のところ、この結果を考えれば、彼の言葉もそう間違っていないのかもしれない。自分のことにかまけて、シリルをほったらかしにしていたのは事実だ。

「……ぼくは……」

 思わず俯いた頭に、は、とロジェの溜め息がぶつかった。

「あんたの血の味が忘れられないままクラブですごすのはシリルが可哀想だ、と言って契約させたのはこっちだ。……でも、シリルは、あんたの自己満足を映す鏡じゃない。吸血鬼だけど、一人の人間なんだ」

 顔を上げると、ひどい顔をしたロジェがいた。

「ちゃんと吸血鬼のことを……シリルのことを考えてやってよ、先生。頼むからさ」

 可愛らしい顔を盛大にしかめて、眉間にくっきりと皺を寄せ、ひどく痛ましい顔をしていた。
 ――不遜を絵に描いたような彼にこんな顔をさせているのは、他ならぬぼくなのだ。そう思うと、またずきりと胸が痛んだ。
 ぼくが呆けて顔を見ていることに気づいたのか、ロジェがぱっと襟から手を離した。急に離されたせいで、ぼくの頭はぼすんと音を立ててシーツに埋まる。
 ぼくの襟首を解放したロジェは、いつものような不敵な笑みを浮かべていた。どうやら、話は終わりらしい。

「さ、止血をしなきゃね、先生。やってあげる。それと、どうせ貧血で体も動かないだろうから、今日はこの部屋で寝ていきな」
「……それは、ありがたいが」

 止血の材料を取りに行くのだろう、ドアに向かったロジェが、ノブを掴んだところで、ああ、と思いついたようにこちらを振り返った。

「シリルが起きても妙なことはするなよ、先生」
「……しないよ」

 バン! と勢いよく閉まったドアに言い返しながら、ぼくはゆっくりと体を起き上がらせた。
 狭いベッドの隣では、シリルがすうすうと寝息を立てていた。ぼくとロジェの口論にもなっていない言い合いの間も微動だにしていなかったから、深く眠っているらしい。
 ふと手元を見ると、ベッドについた手から血が滲んで、シーツに赤い染みを作っていた。
 首の痛みのあまりの強さに忘れていたが、そう言えば彼に手も噛まれていたのだった。
 ベッドサイドのランプの明かりに透かすように、手を持ち上げる。どうやら片方の牙で噛んだらしい、指の端には抉られたような傷がついていた。

「……わざとこの指を噛んだのか?」

 ぽつりとつぶやきながら、ぼくはこんこんと眠る吸血鬼を見下ろす。
 噛まれた指は、左の薬指だった。シリルが箱から落とした、あの指輪がはまっていた場所である。
 ぼくが咄嗟に動かした手が左だっただけで、たまたまだろう。だが、偶然にしては、よく出来ていた。悪い冗談みたいだ。
 ずっと見ていると、気配に気づいたのか、シリルがゆっくりと瞳を開けた。

「……ケイ」
「シリル」

 思わず、身を乗り出して彼を覗き込む。ぼくの血を吸ったからか、ひどく青白かった顔色は、わずかだが血色がよくなっているように見えた。

「すまなかった、シリル。ぼくのせいだ」

 傷のついていない右手を伸ばし、頬を撫でる。撫でた手に頬をすり寄せながら、シリルは重く瞬きをした。

「ん……」

 静かに眼球を動かして、ぼくの首や手に噛み痕がついているのに気がついたシリルが、じっとぼくの左手を見つめた。
 そっと左手を顔の前に出すと、ゆるゆると腕を上げたシリルが、手首の辺りを掴んで引き寄せた。
 また噛まれるのかと思ったが、そうではない。
 乾いてきた血をこそぎ取るように、指の付け根にシリルの舌が伝う。そのぞわぞわとした感触に背筋を粟立たせながらも、ぼくはつとめて真摯にシリルの顔を見つめた。

「シリル」
「ん……?」

 吐息のような相槌だったが、ないよりはましだ。シリルのか細い声に背中を押されるて、ぼくは口を開く。

「その、色々とすまなかった。……家に帰ったら、指輪は捨てるよ」
「どうして」

 そう言って、シリルは深い息とともに言葉を継いだ。

「そんなこと、言ってない」
「だが……」
「指輪があってもなくても、ケイはケイでしょう」
「……それは、そうだが」
「なら、それでいい」

 そう言ったきり、シリルが目を閉じた。
 なんて懐が深いのだろう。……それとも、本当にどうでもいいと思っているのか。恐らく後者だろう。それはそれで寂しい気はしたが、およそぼくの血以外のものに興味を持っているように見えぬシリルなら有り得そうなことだった。

「シリル」

 また眠ろうとする彼に追い縋るように、口が動いていた。

「きみはどうなんだ。その、ぼくに会うまでは」

 自分のことは話したものの、そう言えばシリルのこと――過去というものを、まったく知らないでいる。
 このクラブは、彼が育った家でもある。シリルにだって、思い出の一つや二つくらいあるだろう。
 しかし尋ねると、眠りを阻まれたからだろう、シリルは微かに眉根を寄せたものの、瞳を閉じたまま、ぶつ切りにこう返した。

「なにも」
「え?」
「ケイに会うまでは、なにも」

 まるで、ぼくに出会う前の自分など存在しなかったかのような、そんな口振りであった。

「……シリル……」

 名を呼んでも、今度はなにも返ってこなかった。少しの会話だったが、また疲労が蘇ってきたのだろう。
 目は閉じられたままで、吐息が深く長いものになっている。再び眠りに就いてしまった美しい吸血鬼を見下ろしながら、ぼくの心中には複雑なものが渦巻いていた。
 ――渦を巻いている思いは、指輪にまつわることだけではない。

『シリルは、あんたの自己満足を映す鏡じゃない。吸血鬼だけど、一人の人間なんだ』

 先ほどのロジェの言葉が、ぐるぐると頭の中を回っていた。
 シリルは一人の人間。それはそうだ。だが、もしそうなのだとしたら――もっと、ぼくに対するアプローチがあってもいいのではないだろうか?
 そんなの責任転嫁だ、とぼくの中でぼくが叫ぶ。だがそれに、感情の乏しい幽霊のような彼のせいだ、と言い返すぼくも、確かに存在していた。
 思いがどろどろと混ざり合って、気持ちが悪い。

「シリル……」

 やはり彼は眠っているようで、ぼくの呼びかけに応えるものは誰一人いなかった。
 思わず、右手が伸びていた。彼の顔――その下に細く伸びる、首へ。

「きみが……きみさえいなければ、こんな苦悩は……」

 なにをしているのだ、ぼくは。
 彼は無防備に眠っている。だがそれは、ぼくにこんなことをさせるためではないはずだ。
 それでも、わななきながらも手は首元へと伸びていく。そのすぐ上で、手が首を覆うような形をしているのに気づいて、我ながらぞっとした。
 眠っている彼に――なにをするつもりなのだ、ぼくは。

(ぼくは……なんてことを……)

 わなわなと震える手は、なにも出来ないまま、だらりと下に落ちる。
 分かっている。彼のせいではない。シリルはそういう性格の生き物なのだと、それが飲み込めないでいるぼくの度量の問題だ。
 だが、それでも、思わずにはいられなかった。
 これは悪い夢なのではないかと――ぼくは彼と出会ったあの晩から、ずっと夢を見ているのではないかと――。
 ぐるぐると渦巻いたまま、決してきれいな色をしていない感情がぼくの心にあった。
 しかし、それと同時に――心の奥底で彼に惹かれてやまない自分がいるのもまた、痛いほどに分かっていた。
 愛している、と言っていい。だが、抱えている愛情と同じくらいに、彼のことを疎ましく、憎く思っているのも、認めがたいが事実なのだ。

「ぼくはたまに、きみがどうしようもなく憎くてたまらない時があるよ」

 きっと、ロジェが聞いたら勝手なことを怒るだろう。だが、感情に嘘を吐くことは出来ない。

(夜空の瞳に、まどろむ陽射しの髪……)

 眠る瞼を、髪をそっと撫でても、シリルは目覚めることはなかった。
 いまのシリルは、きっとぼくがなにをしても気づかない。ゆだねられているという嬉しさは、同時にどうしようもなく不安を煽った。

「美しくもおぞましい、ぼくの幽霊ルヴナン

 思っていることをそのままつぶやくと、少しだが心が軽くなった気がした。
 そうだ。ぼくはこの生き物を、愛おしく思うと同時に、おぞましく思っているのだ。

(……血が)

 夢見る薄紅色の唇の端には、まだぼくの血がこびりついていた。
 ぐいと指の腹で擦り取ってやって、それから試しに指についた血を舐めてみたが、塩辛いばかりでなにも美味しくはなかった。しかし、この眠っている幽霊のような彼にしてみれば、極上の食事なのだろう。不思議な気分だった。

「……キスくらいなら、怒らないけど?」

 ドアの開く音とともに、揶揄するような声がした。振り返ると、小さな箱に包帯と止血のための軟膏を入れたロジェが、にやにやと人の悪い笑みを浮かべながらぼくを見ている。
 態度からして、いま入ってきたばかりで、ぼくがつぶやいていた言葉など露ほども知らぬようであった。それに安堵しながら、ぼくは肩を竦める。

「遠慮しておく。人に見られる趣味はないんだ」
「ふぅん? ま、いいや。ほら、首を見せて」

 ベッドの脇にあった椅子を寄せて腰かけたロジェが、ぼくの座っているすぐ横に箱を置く。すぐさまてきぱきと始められた手当てに身をゆだねながらも、ぼくの心中には未だ、煮詰まった感情が静かに波を打つのであった。

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