ある休日の夜のことである。ぼくたち――ぼくとシリルは、久しぶりにクラブ「プライベート・ブラッド」にいた。
クラブ自体に赴くのは、別に久方ぶりのことではない。増血剤や止血の道具を買いに来ることだってある。だが、そういう時は二階にある応接間のような部屋に通されるのが常で、今日のように大ホールに二人で立っているのは、久しぶりと言うよりも初めてに近いことであった。
ぼくとシリルが出会ったのは、奥の階段を上がったところにあるテラスであって、このホールではない。だからだろうか、二人で立っているとどこか落ち着かなくて、ぼくはずっとそわそわとしていた。
ぼくたちは、大ホールの一部分を大きな幕で区切った、ある一室にいた。そこにはぼくたちだけではなく、世話をするギャルソンの他に、二十人から三十人ほどの人間がひしめきあって、酒を酌み交わしては談笑していた。
場にいる人間たちは老若男女揃っていて、ぼくよりうんと年がいった女性もいれば、年若い少年までいたが、その誰もが手首にブレスレットをつけた相手を連れていた。
くすんだ金のブレスレットにはタグがついていて、そのタグには漏れなく輝石の類が打ち込まれている。つまり――吸血鬼とその契約者たちが、この部屋には揃っているのだ。
こういう集まりをクラブ側は「交流会」と呼んでいて、定期的に行われているものらしい。そして、その集いに今回はぼくもどうかとロジェから声がかけられた訳なのだが、どうしてぼくなんかがこのような社交界の場にいるのか、果たしていてもいいものなのか――そんな不安で胸がいっぱいで、先ほどから挙動不審になってしまっていた。
隣にいるシリルの方はぼくの緊張なんて知らぬ顔で立っていて、慣れた様子でギャルソンを呼び止めワインを受け取っていた。
「はい」
神経質に手を組み合わせて突っ立っていたぼくの眼前に、シリルがグラスを突きつける。差し出されるがままに飲み込んだワインはよく冷えていて、少しだが緊張が和らぐような心地がした。
「……きみはなんだか慣れてるな」
「そう?」
別に、としれっといつもの無表情で付け足しながら、シリルがワインを飲む。細い喉仏が嚥下で上下するのをぼうっと見つめていると、もし、と隣から男の声がした。
「楽しんでますかな?」
恰幅のいい、紳士然とした男であった。見た感じ五十代後半から六十代前半と言った見た目で、丁寧に整えられたひげはほとんど白くなっている。
「いや、その……。実を言うと、交流会はこれが初めてで」
「ほう。色んな人から他の吸血鬼の話を聞けますし、なかなか楽しいですよ」
「そうですか」
はは、とぼくがぎこちない笑いを浮かべると、紳士はにっこりと人のよさそうな笑みを作った。
「美しいですね、彼」
「えっ、あっ」
つい、と紳士が「彼」に向けてグラスを掲げる。それにつられて視線を横に向けると、隣に立っていたはずのシリルは、ふらふらと少し離れたところを歩いていた。
「その……はい」
シリルの美しさは、ぼくも日々感じているものだ。否定する気になれず、しかし正面切って美しいでしょうと威張るのもなんだか変な感じがして、半笑いのまま曖昧に頷くと、ふふ、と紳士が微笑んだ。
「男性ですか。時にはよいかもしれませんね」
(時には――?)
「うちのは三十前の女性でしてね。ほら、あそこにいるのですが」
時には、とはどういうことだろう、とは思ったものの、紳士はぼくの疑問など気づかぬ様子で吸血鬼の紹介をしだした。
すい、とかざされた手の先には、美しいブロンドの女性がいた。少しパーマがかった髪をしていて、ウェーブが美しく腰まで伸びている。
「きれいな方ですね」
「それはいいんですが、あれは自分でもそのことが分かっているようでね。美しさを維持するためだと言って、あれこれ買わされていますよ」
「そ、それは……」
大変ですね、と紳士に言いながらも、やはりぼくの心の落ち着きが戻ってくることはなかった。
ロジェに「試しに一回くらいは出てみたら。財界の大物から貿易商、美術館の館長までいるから、あんたも多少は面白いと思うけど」と言われて出てきたものの、そもそもぼくは人付き合いが苦手で、同じ学問を志している人ばかりがいる学会の会合でさえ、億劫に感じるほどなのだ。確かに美術館の館長には多少興味があったが、それがどの人なのかも分からないし、布を隔てた向こうではクラブが平常通り営業していると言うのに、まさか大声を上げて探す訳にもいかない。
この紳士もぼくに気を遣ってあれこれと話しかけてくれているのは分かっていたが、正直な気持ち、適当なところで切り上げて帰ってしまいたかった。
まだ誰とも契約を交わしていない時ならまだしも、いまのぼくにはシリルがいる。普通は「他はどうなんだろう」と気になるものなのかもしれないが、ぼくにはよそを気にかける余裕すらない。そんな訳で、他の吸血鬼への興味も湧かなかった。
「ところで……」
ぼそ、と紳士が打ち明け話をするような小声を出した。
「交流会に出るのは初めてとのことでしたが。……では、『あのこと』もご存知ない?」
「あのこと……と言いますと?」
聞き返すと、紳士はわずかだが困ったような顔をした。半ば予想はしていたが、それでも聞き返されると思っていなかったような、そんな顔だ。
「知らないのですね」
「はぁ」
曖昧に頷くと、紳士が小さく動いて、向かい合っていた体をぼくの真横にぴたりとつけた。
「……交流会に出た者たちは……もちろん皆が皆ではないのですが、互いのパートナーを一晩、交換することがありましてね」
「え?」
面食らって聞き返すと、紳士が眉尻を下げて笑った。先ほどと変わらぬ困り顔に笑みを加えたものだが、どうしてだろう、少し胡散くさく見えた。
「パートナーと言うと、吸血鬼を……ですか?」
「ええ、そうです」
――なるほど。だから彼は、シリルを見て「時にはいい」なんて言ったのか。
一晩交換する、と言う言葉の意味合いを理解して、緊張しきっていた頭のどこかがすっと冷えた。
奔放と言えばそれまでだが、恐ろしいことをする。そこに吸血行為が付随しなくても、性的なそれがついて回るのならば、それは不貞行為に――いわゆる浮気にあたるのではないだろうか。
吸血鬼と人間の間柄は、必ずしも恋人とも限らないと言う。家族のような仲の二人もいるそうだ。だが、それにしたって、なにをされるかなんとなく想像がついた上で、家族を一晩見知らぬ相手に預けたりなんて出来るものなのだろうか?
金と地位のある人間はなにを考えるか分からない――驚き半分呆れ半分でそう結論づけたぼくは、ようやくシリルの不在ということの重大さに気づいた。
そんな慣習がある集会で、吸血鬼を野放しにしておくのは危ない。パートナーに目を離されている吸血鬼なんて、遊びたい連中にしてみればいいカモだろう。
「その……すみません。そういったことは、あまり気が進みません」
「おや、そうですか。残念ですね」
興を削ぐようなぼくの言葉にも、紳士は動じる様子もなく、本当に残念そうにそう言った。
……もしかして、本当にあわよくばシリルを、なんて思っていたのだろうか。そんなことを考えながら、会釈をする。
「あの、し、失礼します」
早口でそう言って、ぼくは慌ててシリルを探しだした。
手に持っているグラスが邪魔だったので、その辺にいたギャルソンを捕まえて渡したのはいいものの、肝心のシリルが見つかることはなかった。幕で店の一部を切り取っていると言っても、その広さは限られている。それで見つからない、となると、この区画から出ているとしか考えられなかった。
(ああ、もう――!)
どきどきと弾む胸をなんとか押さえつけて、ぼくは幕の端をそっとめくって、大ホールへと出た。
布で区切られていると言っても、その外も中も大して変わらない。ぼんやりとした蝋燭とランプの明かりを頼りとした、薄暗い空間。そのところどころに席が設けられていて、そこでは誰とも契約をしていない吸血鬼と、会員である人間が楽しげに会話をしている。
あまりうろうろしていても不審に思われるかもしれない。だが、ぼくにはシリルがいそうな場所の見当なんてつきそうになかった。
(いや、待てよ)
一ヶ所だけ、思い当たる場所があった。ぼくにも行ける場所だ。
二階にある、シリルがかつて生活をしていた部屋ではない。だが、なんとなくその場所であるような気がして、ぼくは大ホールの奥にある螺旋階段を上がっていた。
螺旋階段を上がった先にある、あの路地裏の木戸の入り口からは想像も出来ない、小さめであるが外の見えるテラス。ぼくとシリルが出会った場所だ。
シリルはどこだろうか。それとも、ここではなく、また別の場所にいるのか。そんな不安を抱きながら、きょろきょろと周囲を見ていた時である。
ねぇ、と声をかけられた。シリルの、細いが透き通っていて落ち着いた声ではない。彼より少し高くて、けれども芯のある声であった。
「こんなところで、なにしてるの?」
後ろを振り返ると、美しい少年がいた。
十代後半といったところか、濃い茶の髪はうなじで切り揃えられていて、彼が首を傾げる度に輪郭に沿ってさらさらと揺れていた。
「こんなところ、あまりお客様は来ないんだけど」
言葉にはっとして、彼の手首を見遣ると、やはりそこには吸血鬼を示す金のブレスレットが下がっていた。
タグは見えたが、手が後ろ手に組まれているせいで、そこに石が打ち込まれているのか――既に契約を交わしている者なのかは、判別出来なかった。
しかし、吸血鬼と言うことは、シリルのことを知っているかもしれない。その事実に背中を押されるように、ぼくは声を発した。
「その……人を、探していて……」
「人探し? クラブで面白いこと言うね、おじさん」
とん、と大きくステップを踏んで、一足飛びに少年がぼくに近づいてきた。腕を伸ばせばハグでも出来そうな距離で、大きな亜麻色の瞳が笑っている。
「それより、遊ばない?」
「いや、その……」
この口振りからすると、契約をしていない、店にいる吸血鬼なのだろうか。
少年性愛者であるぼくからするとなんとも魅力的なお誘いだったが、ぼくには契約を交わした吸血鬼がいる。じっと楽しそうに見上げてくる少年から目を逸らして、ぼくは再度口を開いた。
「だから、人を探していて――。それに、ぼくにはもう契約した吸血鬼が……」
「ふぅん? 本当に?」
背伸びをして、少年がぼくを下から覗き込んでくる。顎を下に向けたら唇が触れてしまいそうな距離だ。
「本当」
「ああそうだ、本当……あれ?」
いま口を挟んだのは誰だろう。そう思っている間に、ぐい、と後ろから手を引かれた。
手と言うより、腕か。腕になにかが巻きついている、と気づいた時に、ぼくは反射的にその正体を口にしていた。
「シリル!」
「ケイは、だめ。お前とは遊ばない」
ぼくの腕に抱きつくように腕を絡めながら、後ろからシリルが少年に淡々と告げる。
「なぁんだ、本当に吸血鬼、いたの」
そう言って、少年が近づいた時と同じ気安さで離れていった。どうやら、お手つきのぼくには興味がないらしい。
それじゃあね、なんて軽い言葉とともに、少年はあっさりと背を向けて去っていく。それをぼんやりと見送りながら、ぼくは自らのすぐ後ろに立つ吸血鬼へと視線を飛ばした。
「まったくシリル、きみ……」
いったいどこに行っていたんだ、と続けようとした時である。腕に絡みついていた手がほどけて、くい、と背後からぼくの顎を取った。
「ん、む……」
深く、口づけられる。
誰が来るとも知れぬ店の中で、と思ったが、彼の方が背丈があるから、キスをされるとどうにも逃れがたい。
ふ、と息継ぎのために開いた口に、濡れた舌が潜り込んでくる。ままよ、と自棄になって舌を差し出すと、もつれた互いの舌の間から、濡れた水音が頭に響いた。
「……帰ろう、シリル」
唇を離して、彼の頬を撫でる。彼にもたれかかるようになってしまっているのがいささか格好悪かったが、どうせそれを気にするシリルではない。開き直ってちょっと体重をかけてみると、シリルはそうするのが当然のようにぼくの腰に手を回し、体がずれないようにホールドしてくれた。
「ん」
シリルはなぜ帰るの、とは言わなかった。主体性があるのかないのかよく分からない彼のことだ、きっとこの集まり自体どうでもいいのだろう。
交流会には最後までいないといけないと言う決まりもないはずだ。このままクラブの入り口に戻って、素知らぬ顔で帰ってしまおう。
体を離して、ほら、と手を出すと、シリルの体温の低い手がそっと乗せられた。
手を引きながら、ぼくは考えていた。
――なぜ、シリルはぼくにキスをしたのだろう。
なにを考えているかいまいち掴めない彼の行動に理由を求めても詮ないことなのだが、それでも、あのタイミングで――他の吸血鬼が去っていった直後にキスを求めるなんて、まさか。
(まさか、嫉妬した……とか? シリルが?)
ちらりと後ろを見てみても、シリルはいつもと同じ、なにを考えているのか、はたまたなにも考えていないのか、それすら分からない無表情に近い顔をしていた。
理由を尋ねても、さあ、と首を傾げられそうだ。しちゃいけなかった? なんて聞き返してくるシリルの想像がついて、ぼくは前に向き直り、彼に見えないように小さく笑った。
嫉妬だなんて、まさか。彼に限って有り得ないことだ。
だが――受け取る方がなんと思おうとも、自由だろう。
テラスから階段を下りるぼくの心は、交流会の場にいた時の緊張を忘れ、なぜだか少し、うきうきと躍っているのであった。