※猟奇的な表現を含みます
私の記憶は、土埃と煤にまみれ、ゴミの腐ったにおいで始まる。
「人の店の前で座り込まないでくれるか、お嬢ちゃん」
店の前? アパルトマンかなにかでしょ、ここ。それに、そんなこと私にはどうだっていいんだよ。あんたみたいなのに同情される覚えはない。
しばらくなにも食べ物を放り込んでいない口で言い返すと、私よりちょっと上くらいの男の子は、はは、と笑った。大人みたいな笑い方だった。
一目でいいご身分の子だと分かる、十代前半くらいの男の子だった。
さらさらの金髪は眉の上で整えられ、そのすぐ下では、きらきらした黄緑色の目が、視線を離せないほどにきらきらと輝いていた。
その目をすがめて、男の子は笑っている。
身なりがいい癖に、その男の子は片手に袋を持っていた。どうやら、使用人でもいそうな格好をしているのに、どこかへ買い出しに出ていたらしい。
「いい度胸してるな、お前。気が変わった、拾ってやる」
それってなに、あんたのお屋敷の小間使いってこと? そんなの嫌だ。
「まずは言葉遣いからだな。いいから立て」
そう言って、男の子は握るのも躊躇するほどにきれいな白い手を私に差し出した。
おずおずと、握る。失礼なのはどう考えたって彼の方で、そしてそんな風に扱われるのも慣れていたのに、私はなぜか、その手を取ってしまった。
「名前は?」
「忘れた」
「……やれやれ」
男の子は肩を竦めて少し考えてから、私に向かってこう言った。
「ニーナ」
「?」
「お前の名前だ、いま決めた。ほら、さっさとしろ」
握っていた手をぱっとほどいて、彼はくるりと体を反転させて、私の背後にある細い階段を下りていく。背の高い柵で気づかなかったけど、この場所――彼の言うところの店は、どうやら地下に通用口があるらしい。
「あんたは?」
「は?」
慌てて階段を下りながら呼びかけると、男の子は小さく仕立てられたジレの隙間から鍵の束を出したポーズのままで私を一瞥した。
「ああ、名前か。ロジェだ」
「ロジェ」
私がその名を口の中で転がのを見ながら、彼は手の中の束からいくつかの鍵を使って、その木戸を開いた。
中からは、ほんのりとワインみたいなにおいがする。それに、昼間だって言うのに薄暗い。
「さっさとしろ、ニーナ。今日からこの店が、お前の居場所だ」
◆
体を洗われ、ぼさぼさの髪を整えられ、そして私は「店にふさわしい人間になれ」と作法を叩き込まれた。
彼からの口伝えだけではない。わざわざ家庭教師を呼んだ上で、彼は私にあらゆる教育を教え込ませた。
正しい言葉の使い方、この国の成り立ちや地理、そして年を経てからは、醸造所の人間を呼んでいい酒の見分け方に、背も体格もある男を地面に転がす方法まで。
彼――ロジェは、確かに地位のある少年であったが、貴族や豪商の子息ではなかった。
人の店、と言ったのは、誇張でも間接表現でもなかった。私が拾われたこの店は、まさに彼の所有物であったのだ。
十になる前に拾われ、それから十年。その間に教育を施され、酒の味を覚えて、私はその店の「門番」となった。
店――クラブは、奇妙な場所であった。ギャルソンや小間使い、私の他は客を除いて、そこにはまともな人間がいなかった。
比喩ではない。クラブで人間の接客をしているのは、吸血鬼と呼ばれる私たちによく似た生き物であった。
似ている、と言うよりも、見分けがつかない。ただ、それでも彼らが食べ物をあまり口にせず、どろどろとした赤いものをゴブレットに注いで飲んでいるのを初めて見た時は、なんとも言いがたいおぞましさに顔を背けたのを覚えている。
それでも、親の顔すらろくに覚えていない私には、ここしかなかった。
少なからぬロジェへの恩もあった。あの時に拾われていなければ、私はとっくに路地で餓死していたに違いない。
ロジェ。
吸血鬼よりも更に奇妙であったのは、彼であった。
私と出会った十数年前から、彼はどこもかしこも同じであった。外見が変わらない――老いないのだ。
それを不思議に思われないよう、店の裏方は定期的に変えられるか、よほど信用の置ける人間のみ長く雇っているようであった。
私たちだけではない、吸血鬼たちの中にも、彼がいつまで経っても十数歳の少年の姿でいるのを訝しみ、不気味に思う者もいた。それでも、なにかがあってクラブを出て行く以外に、自主的にこの店を離れる吸血鬼はいなかった。
彼らとて、自分が「普通」でないことは分かっているのだろう。やはり彼らの居場所も、このクラブしかないのだ。
彼らがクラブを離れる時は、おおまかに二つあった。一つはなんらかの理由で死ぬこと。もう一つは、人間と契約することだ。
不思議なことに、彼らの味覚には相性の良し悪しが存在するらしく、相性の悪い人間からは全く生き血を啜ることが出来ないらしい。確かに、店にいる彼らは、なんらかの家畜の血を混ぜた、いかにもまずそうな血を飲んでいた。
しかし、血の相性がいい人間は、味見をせずともそうと分かるらしい。そうして、彼らと相性のよい人間を探すため、いままでの生活に飽いた金のある人間たちの好奇心を満たすために、このクラブは存在している。
最初は吸血鬼のこともロジェのことも、そしてクラブの運営目的だって気味が悪くて仕方がなかったが、慣れとは怖いもので、そのうちどれも気にならなくなっていた。
十五をすぎて私に与えられた仕事は、このクラブの入り口――あの日私が座り込んでいた真下の木戸の前で、客の会員資格を確認することだった。
柵から大きく身を乗り出しでもしない限り外からは見えづらくなっているドアの前に立ち、客から合言葉とともに会員証を受け取って会員資格を確認する。会員証は一目見ただけではただの黒塗りの板であったが、ランプで照らしながらカードの角度を変えれば、塗料で見えにくくなった文字が浮かび上がるようになっている。
始めこそ確認作業に慣れずにあたふたしたものであったが、どうやら私は表情に考えていることが出にくいたちらしい。客はおろか、同じクラブで生活している吸血鬼でさえ、私のことを鉄面皮でなにを考えているか分からない奇妙な女と呼んだ。
門番としては好都合であった。焦ったり不安に思っていることが顔に出ては、頼りない人間だと思われるだろう。そんな女が門番をしていては、ロジェが大事にしているクラブの品格が問われてしまう。それだけは避けたかった。
彼に拾われた時、私はそれまでの惨めで汚かった人生を捨てた。厳しいくらいの態度で作法を叩き込まれ、部屋の隅で密かに涙を落とした時、わずかながら心の底に存在していた、人並みの幸福への憧れや親がどんな人物であるか夢想することをやめた。
ロジェはこのクラブであり、このクラブはロジェであると彼は言う。であるのならば、私はその一部だ。
◆
ひどく冷えた晩であった。
狭い煉瓦造りの壁に向かって吐く息が白い。壁の窪みに置いたランプが、ジジ、と音を立てた。
(油を足さないと)
普段は、ドアを開けて近くにいるギャルソンを呼び止め、油を継ぎ足してもらう。だが、今日に限ってはドアを開けても、「誰か」と呼びかけてみても、誰も足を止める気配がなかった。
ドアのそばにギャルソンがいない。きっと皆忙しいのだろう。
仕方ない、自分で行くしかない。
細く開けたドアへ身を滑り込ませ、内側から三つ錠をかける。もう夜半をすぎて客もそう来ないであろうが、万一のこともある。さっさと済まさなければ。
ランプを手に持ったまま、油の置いてある倉庫へと足を向けようとしたその時であった。
客と吸血鬼たちの話し声の隙間に、音が聞こえた。
ひどく小さい、耳をそばだてていてもはっきりとは聞こえぬ音であった。
人の声と、なんらかの物音。それらは、二階――吸血鬼や自分たち住み込みの店の者が居住するフロアから聞こえていた。
(こんな時間に?)
吸血鬼が誰かと諍いを起こしているのかもしれない。そうだとしたら、外野の私が覗きに行っても失礼だろう。
だが、胸騒ぎが背を押した。
ランプを持ったまま、階段を駆け上がってぞっとした。音は、廊下に並んだドアのうちの一つ――ロジェの執務室から聞こえていたのだ。
階段を上がると、音ははっきりと聞こえた。がたがたとなにかが動く音、それから、大人の男の声。
ランプを廊下の隅に置いて、大股でドアに近寄る。階下よりも明瞭に聞こえる声がよく知る店の関係者のそれではないのに嫌な確信を得て、私は乱暴にドアを開けた。
じゅうたんが真っ赤だった。
落ち着いたベージュ色のじゅうたんが、真っ赤な染みを作っていた。その前に、男の背中が見える。今日通した客のフロックコートと同じ生地だ、と思った瞬間に、体が動いていた。
ドアが開いたのに気づいて振り返った男の肩を押さえて、地面に押しつける。男の手からカラン、と音を立てて落ちたナイフをそのまま倒れた首にあてがうと、ひい、と男の口からは引き攣れた醜い声が上がった。
「ニーナ」
次に響いた声は、男のものではなかった。
首にナイフをあてがったまま、恐る恐る顔を上げる。
真っ赤になったじゅうたんの上に横たわったロジェの手が、そろりと上がっていた。
「そんな男のために、人殺しになるんじゃ、ない」
「……ロジェ……!」
「そ、こに」
真っ白く、そして赤い点がついた手が、私の背後を指す。力が籠められないのだろう、ひどく歪な指差しだった。
ちら、と指の指し示す方を見て、かっと首の後ろが熱くなった。怒りのあまり力が入ってしまったらしい、ごぎり、と鈍い音が手元から上がって、男がまた悲鳴を上げる。
そこには、縄や布などの、人を拘束するための道具が置いてあった。
腕を折られ、男はもう抵抗する気が起きぬようであった。片手で縄を引き寄せ、折れた腕ごとまとめて両手を縛る。拘束の間も痛いだのなんだのと五月蠅いので、布も丸めて口に放り込んだ。
「……ロジェ」
そうして男を動けない状態にして転がし、怒りが収まらぬので強く腿を蹴り飛ばしてから、私は募る恐怖と不安のまま、彼へ近寄った。
男が手に持っていたナイフには、血がついていた。そのナイフで裂かれたのであろう、ジレとシャツを斜めに裂いて、腹に大きな刺し傷が出来ていた。
「やれやれ、吸血鬼目当てだと、思っていた、のに、こっちが目当て、の、とんだ変態、野郎だった、とは……」
小さな背に手を差し入れ、ゆっくりと体を起こすと、ロジェは大怪我をしているとはとても思えぬ淡々とした口調でそう言った。
言い終えるや否や、げほ、と咳き込む。口の端から細い血が伝うのを見てしまうと、私はもう、だめだった。
「ああ、ロジェ……」
どうしよう、彼が死んでしまう。老いや死から一番遠い存在のはずの、彼が。
「ロジェ、ロジェ……」
「泣き虫め」
小さい頃、隠れて泣いていた私を見つけた時と、全く同じ言い方だった。
「お願い、死なないで……、死なないで下さい……」
「こんな、もので、死ぬもんか」
そんなこと言ったって、私が押さえている腹からは今もじくじくと血が流れ続けている。普通の人間であれば、間違いなく死ぬ傷だ。
「見つけたのが、お前でよかった、よ」
「そんな」
「吸血鬼連中に見られては、後が、面倒だ……」
着ていたコートを脱ぎ、彼の腹に巻いて縛る。
はぁ、と浅い息を吐いて、ロジェが私を見た。頬は失血ですっかり青ざめた色をしていたけれども、それでも、よく見慣れた皮肉めいた笑みであった。
「医者を、呼べ……。吸血鬼たちを見せている医者だ、分かるな?」
「はい、はい……」
「ああもう」
泣くな、と言って彼が小さな手を私の頭に載せた。その小さな温かい手に押し出されるように、またぼろりと涙が出る。
「本当に、ガキの頃から変わらないな、お前は……」
そう言って、長い瞬きのように、ロジェが目を伏せた。
うぐ、と口の中で噛み殺しきれなかった嗚咽が口からまろび出る。
すぐにお医者様を呼ばないと、そう思っているのに、彼のそばから離れるのが怖くて、私は目から止めどなく出てくる涙を手袋に吸い取らせながら、しばらくその場から動けずにいた。
◆
「やれやれ」
執務室の大きな机に広げた羊皮紙に何事か書き込みながら、まるで他人事みたいに彼が呟いた。
「とんだ災難だったな、お前も」
「……私は、なにも。大変だったのはあなたでしょう、ロジェ」
医者を呼んだ後、ロジェはこちらが拍子抜けするくらいにあっさりと快復した。
結局、ロジェが普通ならば命にかかわるような大きな怪我をしたことは、私とロジェ以外の誰も知らぬままであった。ただ、深夜にロジェが体調を崩して医者を呼んだと、他の皆はそう認識しているだろう。
大量に血を吸ったじゅうたんも、グレーのものに新調した。
あの男は、あれ以来顔を見せていない。会員資格を失ったのだろう。
あれからひと月、こうして昼間明るいところで見ると、ロジェの顔色はまだ青いように思えた。それでもいつも通り仕事をこなしているのだから、全くもって彼という生き物の仕組みが理解出来ない。
でも、そんなことはどうでもいいのだ。
「礼にもならんが、買い物に行くか。新しいコートと手袋が必要だろう?」
「……それは」
「ほら、クラブが始まるまでには戻るぞ」
言うが早いか、椅子から立ち上がると、ロジェはすたすたと部屋のドアへ向かって歩いて行く。
なんてことのないようにあの日自分が刺された床を踏んで、ノブを掴み、机の前に突っ立っていた私を振り返って、言うのだ。
「さっさとしろ、ニーナ」
そのまっすぐな声が、私を導いていく。暗がりに射す一筋の光のように。
「……はい」
だから私は頷くだけだ。自らの主、自らの光に、かくあれかしと祈りを籠めて。