小さな頃、天に広がる星を掴むのが好きだった。
もちろん実際に掴める訳ではない。手を伸ばして、遙か遠くの空めがけて拳を握るだけだ。
それでも、無数に瞬く星の一つを手に入れたような気がして、わくわくした。
子供の頃の好きだったことは悪癖として残り、未だに自分は夜空に向かって手を伸ばしてしまう。
掴んだ星を、握った手の中でどうしたらいいのか分からぬまま。
◆
――マルグリット暦二七四年、九月某日。
デスクの脇で、モバイルが短く通知音を立てながら振動している。
それを一瞥して、クウヤ・アマサキは眼前に広がるモニターに向き直った。
すっきりとした印象の一重の黒い瞳が、じっとモニターを見つめる。モニターを覗き込むために軽く背を曲げたために、アシンメトリーに整えられた右サイドの長い前髪が、さらりと揺れた。
地球の日本ルーツの人物らしい黒々とした瞳と同色の髪は、白とむき出しの金属の銀を貴重とした研究室内ではいやに浮いて見える。涼やかな目尻にかかる前髪を細い指でかき上げながら、クウヤはモニターに映し出された計器類のステータスを確認していた。
どのシステムも通常通り。今のところ、手を入れる必要はなさそうだった。
ワークステーションをスタンバイ状態に戻しながら、先ほど震えていたモバイルを手に取る。画面をタップすると、そこには旧友からの着信があったことが表示されていた。
「悪いが先に帰る。お疲れ様」
「ああ、お疲れ、クウヤ」
未だにモニターと睨めっこを続けている同僚の肩を軽く叩いてから、モバイルを片手に研究室を出る。
簡素で無機質な長い廊下を渡り、下りのエレベーターを捕まえたところで、クウヤはモバイルの履歴から通話画面を呼び起こした。
『もしもし』
「ああ、アルブレヒトか。さっきは出られなくて悪かった」
『いや、構わん。仕事、終わったのか』
「たった今ね」
音もなく滑り落ちていくエレベーターの大きな窓ガラスからは、並び立つビルと、特殊強化ガラス越しの夜空が見えた。
惑星ジズレの軌道上にあるコロニーの一つ、ティグリスの本日の天候設定は快晴。覆われるガラスに映し出された夜空には雲一つなく、そのお陰でコロニーの外――黒々と広がった宇宙空間と、その中央で輝く恒星・ラーンがよく見えた。
「それで、今どこにいる」
『軌道エレベーター近くのツインタワーのホテルあるだろ? あそこのラウンジ』
「了解」
モバイルから耳を離して通話を終えると、ちょうど高速エレベーターが地上階へ着いた。
一階に下りると、出入り口のドアのセキュリティーを掌紋と虹彩認証でアンロックして外に出る。目の前に停まっていたオート・タクシーに近づき、掌をかざしてドアを開ける。開いたドアから車内後部へ身を滑りこませ、クウヤは前部にあるモニターへ――正しくはそこに搭載されている運転AIに向かって声をかけた。
「ホテル・アルヴァンドへ」
『かしこまりました。五分ほどで到着する予定です』
AIの返答を待ってから、背もたれに体を預ける。
昔――西暦代の地球では、タクシーに乗るのにも実物の貨幣を使用し、人間が運転をしていたと言うからぞっとしない。
現在では通貨は全て電子化され、出生時に払い出されるIDと結びつけられている。幼少期から定期的にログを取っている掌紋と虹彩及び顔認証システムのお陰で、こうして掌をかざしたり、モニターに顔を近づけたりすれば大体の用は済む。
なにをするでもなく、車が行き交う外の様子を眺めながら、クウヤの手は不安げにモバイルを弄っていた。
無機質なシルバーのビル群。その隙間を縫うように通された道路の中を、クウヤが乗っている車と同様、自動運転の車たちが決まった速度で走っている。
数日前に決まった今夜の約束は、クウヤにとって非常に気の進まないものであった。
(嫌だな)
そう思っても、相手はもう惑星本土から軌道エレベーターに乗ってこちらに着いている。今更、嘘をでっち上げて約束を反故にするほどの器用さもない。クウヤに出来ることは、ただ何事もなく今夜が終わりますようにと祈ることだけだ。
(いや、それも無理か……)
『ホテル・アルヴァンドへ到着いたしました』
交差点を滑らかにカーブして、車は入り口にあるタクシー・プールで停車する。
『ご利用ありがとうございました』
アナウンスを背に、車を出る。
自動ドアをくぐり抜け、一階に広がるラウンジへ足を向けると、視線の先でソファーから立ち上がり、ぶんぶんとこちらへ手を振る少年の姿が見えた。
アルブレヒトだ。――正確に言うのならば、彼のギフテッドが、クウヤに向かってにっこりと笑顔を向けてくる。
「クウヤさん、やっほー」
「こんばんは。……待たせたな、アルブレヒト」
「いや、いい。人と約束してるのに残業する辺り、お前らしいよ」
ソファーに腰かけるアルブレヒトの向かいへ座りながら、クウヤは改めて対面に座る二人の姿を眺めた。
金茶のゆるいパーマのかかった髪に、温厚そうな垂れがちのダークブラウンの瞳。薄いチェック模様が入った明るいネイビーのスーツを着ているのもあって、その姿はいささか軽薄そうに映る。
アルブレヒト――アルブレヒト・アルバネスト。クウヤの大学時代からの友人である。
そのアルブレヒトの隣に、可愛らしい少年が座っていた。
さらさらの明るいブラウンの髪、同色のくりっとした瞳。ぱっと見た感じ、十代半ばほどに見える。今日は白いシャツにキャメル色のベストと、紺色の細身のパンツを履いていた。
ぱっと見どこかの有名スクールに通っていそうな外見の彼は、アルブレヒトのギフテッド・エクレチカだ。
ソファーに腰を下ろし、ふ、と息を吐いたところで、小さな駆動音が近づいてきた。接客用の人型ロボットだ。
『いらっしゃいませ、お客様。なにか召し上がりますか?』
「温かいコーヒーを頼む。ブラックでいい」
『かしこまりました』
短い応答の後、再び下がっていくロボットの背をぼんやりと見ていると、向かいのアルブレヒトが嘆息するのが耳に入った。
「ロボットでいいじゃないか、って顔だな、クウヤ」
「……その通り。僕にはギフテッドは必要ない」
人類の地球外移住とともに西暦代が終わって二百五十余年。生活に必要な大部分をロボットとAIに置き換えた世界は、なに不自由なく回っている。
その世界に生きているのが、二種類の人間である。
一つは、人間。クウヤやアルブレヒトたちのような、女性の腹から出産された、ただの人間である。
もう一つがギフテッド。培養ポッドから十ヶ月も経ずに生み出される、遺伝子操作を施された人造人間だ。
ギフテッドは脳、身体の能力に優れ、そうではない人間たちを生活のあらゆる面において支えている。
つまり、ギフテッドは人間に使われる優れたツールなのだ。
アルブレヒトは官民合同プロジェクトでギフテッドの脳の開発に携わっており、彼の隣にいるギフテッドはそのテスト体である。
小さな頃から、クウヤはギフテッドがどうにも苦手だった。どうして生まれ方が違うだけで、人間が人間を使役することがまかり通っているのだ、と思ってしまうのだ。
「しかしな、クウヤ。お前みたいなのが護衛のギフテッドを一人もつけてないなんて異常だぞ、異常。機械が大好きなお前の同僚だって、護衛ギフテッドくらい雇っているだろう?」
「……まぁね」
セキュリティの観点から研究室内へのギフテッドの同伴は認められていないが、業務が終わる時間にビルの入り口まで社員を迎えに来ているギフテッドは多い。
業界シェアトップのセキュリティ会社「アイギス・カンパニー」。クウヤはそこでセキュリティ装置研究をしている研究員だ。
武装ギフテッドとセキュリティー装置による防衛が主となったこのご時世、それらの開発者はなにかと危険が及びやすい。ライバル会社の人間やよからぬことを考えている者にとって、セキュリティー装置を知り尽くしている研究員は格好の獲物だ。
「でもな」
「でももクソもあるか」
アルブレヒトがテーブルに薄型の軟質液晶を載せた。画面には「護衛用ギフテッド」の文字が躍っている。
「わざわざ嫌いな軌道エレベーターに乗って、カタログも持ってきたんだ。今日はお前がギフテッドをオーダーするまで帰らないからな」
「……はぁ」
こうなったアルブレヒトは手強い。クウヤがギフテッドを注文するまで、本気でここから動かないつもりだろう。
溜め息を吐いて、クウヤはテーブルに放られた液晶を手に取った。
「とりあえず、レンタルでいいだろ?」
「もちろん。気に入ればそのままオーナー権をお前に移すことも可能だし」
「ふぅん……」
画面の説明をざっと見た限り、まずは性別と型を決めなければならないらしい。
更に画面をめくると、容姿――その顔つきや身長、そして大まかな性格などを指定するページへが見えた。
再び大きく嘆息して、クウヤはやわらかなソファーへと背を預けた。タイミングを見計らったように給仕ロボットから差し出されたコーヒーを受け取り、喉へ流し込む。
その様子を見ていたアルブレヒトのギフテッド――エクレチカが、ふふ、と可愛らしい笑みを零した。
「ほんと気が進まないって感じだね、クウヤさん」
「なんなんだ外見設定って。面倒くさい」
「四六時中傍にいるんだ、好みの方がいいだろ。なぁ、レチカ」
言いながら、アルブレヒトが隣で笑うギフテッドの小さな肩を抱き寄せた。
レチカと言うのは、エクレチカの愛称である。
まぁね、とそれに相槌を打ちながら、エクレチカの小さな指がつい、とペーパーの上を滑った。
「細かく決めるのが好きじゃないなら、大まかな指定だけでも大丈夫だよ。容姿を細かく決めない方が納品は早いし」
「……納品」
だから、どうしてどいつもこいつもヒトに対してそんなに機械的な単語を使うのだ。
「希望、まったくない訳ではないでしょう?」
「僕より背が大きければなんでもいい」
「護衛用だもんね、体格いい方がいっか。じゃあ男性にして……っと」
エクレチカが慣れた様子でオーダー画面を繰る。細かい容姿の設定はスキップして、身長百八十センチ以上の男性に設定。主目的を護衛用にしたところで、丸い瞳がクウヤをちらりと見上げた。
「他は?」
「ない」
「……お前なぁ」
エクレチカの質問に即答すると、アルブレヒトが信じられないとでも言いたげな顔で睨みつけてきたが無視だ。
クウヤには、本当になにも望みがなかった。なにせこうしている今もなお、ギフテッドなんていらないと思っているのだ。
「ま、いいんじゃない。アルはボクを決める時にすっごーく細かく設定したみたいだけど、そこは趣味だし」
知らなかった。薄々そうじゃないかと思っていたが、アルブレヒトはなかなかにいい趣味をしているらしい。
「……よし、じゃあこんなもんか」
エクレチカの暴露も意に介さぬ様子で、アルブレヒトは少年ギフテッドの手元を覗き込んだ。
「本当にこれでいいのか? こんなにさっさとオーダーが決まることなんてそうないぞ」
「よかったな、珍しい一例が見られて」
可愛くねぇ、と吐き捨てて、アルブレヒトがエクレチカからペーパーを受け取った。
「ソフト側の方は?」
「僕の言うことにあまり口出ししない性格なら、なんでも」
「はいはい……っと」
右手で手早く画面の操作をしながら、アルブレヒトの左手がテーブルを探る。
なにをしているのだ、と思ったが、その後にエクレチカが少し離れた場所に置いていた紅茶のカップを手渡したのを見て、ああ、と納得した。カップを探していたのか。
「注文はお前名義にしておくが、受け取りは本土で俺が受け取っておく。ソフト面の調整は軽くやっておくよ」
「いいのか、そんなの」
本来ならば、ソフト面の調整は別料金のオプションであろう。驚きながらアルブレヒトを見ると、彼は大きな口の両端を吊り上げにまりと笑っていた。大学時代から変わらぬ笑い方だ。
「この俺がタダでやってやるんだ、感謝しろよ」
「してるよ。今だって、こうやって面倒なことは全部やってくれてるしな」
「……お前、なんでそんなにギフテッドが嫌いなんだよ」
「嫌いな訳じゃない」
カップに口をつける。静かに傾けると、夜空みたいな黒い水面にゆらりと極小の波が起きた。
「……苦手なんだ」
どっちも同じだろう、と言いたげなアルブレヒトの視線に気づかないふりをして、カップの中身を空にする。
嫌いなのではない、苦手なだけ――その差を短い言葉で理解してもらうつもりも、詳細に説明してやるつもりもなかった。
コーヒーは冷めていたせいか、いやに渋さが喉に残る。それをどうにも拭えない不安に重ねながら、クウヤは「オーダー完了」と記された画面を見つめるのであった。
◆
それから二週間ほどが経った、ある休日のことであった。
目が覚めると、クウヤのモバイルにはメッセージの通知が入っていた。
寝ぼけ眼で画面を確認すると、送り主はアルブレヒトであった。送信日時は夜の三時。内容は「ギフテッドの調整が終わったので、昼頃ティグリスへ行く」と言うものであった。
「もう、か……」
息を吐く。注文した時から覚悟はしていたが、それでも実際にギフテッドが来るとなると、心臓がキリキリと痛む心地がした。
時計を確認すると、十時を少し回ったところだった。どうやら深く眠ってしまっていたらしい。
寝返りを打って、うつ伏せの姿勢で枕を机にモバイルの画面をタップする。
〈了解。軌道エレベーターのエントランスまで迎えに行くから到着時間を教えてくれ〉
ホログラフィック・キーボードを出して返信を打ち、クウヤは再び寝返りを打つようにしながら起き上がった。
モバイルは枕元に置いたまま、ベッドサイドに置いていたスリッパに足を突っ込み、洗面台に顔を洗いに行く。あえて冷たい水温に設定した水に顔を晒していると、ようやく頭が冴えてきた。
洗面台からキッチンへ向かい、水道から直接コップへ水を注ぐ。その場で立ったまま水を飲んでいると、キッチンのカウンターの隅に置いている円柱型の通信用端末が、静かに声を上げた。
『モバイルにメッセージが届いております』
「読み上げてくれ」
AIに短く返事をしつつ、カウンターに用意してある朝食代わりのビスケットへ手を伸ばしかけて、やめた。きっとアルブレヒトたちとなにか摂ることになるだろう。
『読み上げます。〈十一時にはティグリスに着く〉。返信を行いますか?』
「いや、いい」
『かしこまりました』
ぺたぺたとスリッパを鳴らしながら寝室へ戻る。
ここからオート・タクシーを呼んで、軌道エレベーターのエントランスまで十五分ほどはかかるだろう。と言うことは、あまりのんびりもしていられない。
後ろ向きな気持ちを脱ぎ捨てるようにパジャマを脱いで、クウヤはクローゼットから着替えを引っ張り出した。似たような服ばかりの下がっている中から適当にシャツとスラックスを出して着ると、少し悩んでからついでにジャケットを手に取る。
ティグリス内部は通年過ごしやすい気温に保たれているため、シャツだけでも寒さは感じない。ただ、初対面の人間がいるのに、ラフすぎる格好もどうかと思ったのだ。
(初対面――か)
アルブレヒトに短文で返信をしてから、マンションの下にオート・タクシーを呼ぶ。近くにちょうど空車があったらしい、五分ほどで着くと言う表示を確認してから、クウヤはパシン、と自らの頬を軽く叩いた。
もう逃げられない。と言うよりも、逃げようがない。
(心を決めろ、クウヤ・アマサキ)
モバイルを片手に、玄関へ向かう。革靴を履き、玄関前の鏡で軽く前髪を整えると、掌紋で施錠をしてエレベーターで一階まで降りる。
エントランスを出ると、目の前の道路に一台のオート・タクシーが停まっていた。
モバイルの表示と車のナンバーを見比べる。自分が呼んだもので間違いないのを確認して乗り込むと、クウヤはAIに向かって手短に告げた。
「軌道エレベーター発着場まで」
『かしこまりました。十五分ほどで到着する予定です』
出かけ前に確認した時間通りだ。
モバイルで今日の新聞を開いて、ざっと目を通す。
世事にさほど興味がある訳でもないが、まったく知らないと言うのも気持ちが悪いし、職場での世間話にも困る。
今日のトップ・ニュースは、ジズレ本土で連合政府軍の新型の巨大戦艦が竣工したと言うものだった。つまり、今日も何事もなく平和と言うことである。
流し見をしながらモバイルの画面をスワイプしていると、一定の速度で動いていたタクシーが緩やかに減速した。
交差点を滑らかにカーブする車の動きにつられて、顔を上げる。視線の右から大きなガラスドームが見えて、目的地近くまで来たことに気がついた。
ガラスドーム――軌道エレベーターのエントランス前に滑るようにして停車したタクシーを降り、ドームの内部へ向かう。
自動ドアをくぐり、発着場へ着いても、そこに見知った顔はなかった。どうやら、まだアルブレヒトたちは着いていないようだ。
発着場の見える柱にもたれかかり、モバイルで着いたことを知らせるメッセージを送ろうとした、その時であった。
「クウヤ!」
アルブレヒトの声に、顔を上げる。
発着場のエントランスからクウヤの方へ、三つの人影が近づいてくるのが見えた。
真ん中にいるのがアルブレヒト。休みだからか、細身のブラックジーンズにいささか派手な明るいネイビーのジャケットを着ている。
その右隣がエクレチカだった。こちらも今日はカジュアルな服装で、半袖のシャツにクロップド丈のパンツに、キャスケット帽を被っている。
左隣で歩いている人物は、見たことのない男だった。
年の頃は二十代半ば頃だろうか。こちらは二人とは異なり、かっちりとしたグレーのスーツ姿だった。
背が横にいるアルブレヒトよりも高い。百九十近くはあるだろう。横分けにした短い金の前髪が、歩く度に微かに額の前で揺れている。淡い青の瞳はほんの少し垂れがちで、優しげに笑んでいた。
大柄ではあるものの、全体的に優しげな雰囲気の男である。
おそらく、彼がクウヤのオーダーしたギフテッドだ。
「待たせたな」
「いや、いい。そんなに待ってない」
アルブレヒトの言葉に短く返して、クウヤはおずおずと自分より十数センチほど背の高いギフテッドの顔を見上げた。
目があって、にこりと柔らかく微笑まれる。
悪いやつではなさそうだった。――当たり前か。護衛用ギフテッドである上、彼は既にアルブレヒトの調整を受けている。人格面に問題などあろうはずもない。
「あなたがクウヤ・アマサキですか?」
穏やかだが芯の通った声であった。
「そうだ」
「初めまして、マスター・クウヤ。あなたがオーダーした護衛用ギフテッドです」
差し出された手を握る。ぐ、と握り返してくる手は力強かったが、痛さを感じない程度に加減されていた。
「……名前は」
助けを求めるようにアルブレヒトを見る。肩を伏せて首を振ると、彼は一言こう言った。
「シリアルなら」
「は?」
「名前はお前が決めるものだ、クウヤ。俺も、彼のことはこれまでシリアルナンバーでしか呼んでない」
可能性は考えてない訳ではなかったが、名前を決めなければならないとは、いささか気が重かった。未婚であり、この先も結婚の予定などないクウヤにとって、人の名前を考えるなんて未経験のことだ。
「どう? 決められそう?」
悪気のない顔でエクレチカが笑ったが、重大な仕事に胃と頭が絞られるような心地だった。
「私はシリアルでも構いませんが」
「僕が構う」
ギフテッドが穏やかに声を上げたのにぴしゃりと言い返して、クウヤは思わず溜め息を吐いた。
違う、強く当たりたい訳ではない。けれどもそんな、記号と数字の羅列でいいなんて、言わないで欲しかった。
人の名前なのだから、ランダムな文字列でいいはずがない。
「……分かった、考えるよ」
「オーケー。じゃ、とりあえずメシでも行こうぜ。お前もどうせなにも食ってないだろ?」
軽く頷いて、クウヤは発着場から近いところにあるレストランのうち、アルブレヒトが文句を言わなさそうな店をざっと頭の中でリストアップする。
オート・タクシーで五分ほど行ったイタリアンなら、シンプルなつくりだがセンスは悪くない。あそこで問題ないだろう。
「それじゃあ――」
タクシーを捕まえるか、と言おうとしたその瞬間、自らに向けられている視線に気づいて、一瞥する。
視線の主は長身のギフテッドであった。初対面かつ護衛対象だから観察しているのであろう、視線には悪意こそ籠もっていないものの、くすぐったいものがあった。
また目があって、微笑まれる。
その穏やかな笑みにどう返せばいいか分からなくて、顔を逸らす。
慣れない視線は常に体のどこかに刺さって、クウヤの心にさわさわと小さな波を起こすのであった。
◆
――数時間後。
四人で食事を摂り、「また軌道エレベーターに乗らないといけないのか」と顔をしかめるアルブレヒトを見送り、タクシーで帰路に就いたクウヤは、見慣れた高層マンションのシルエットを見て、我知らず息を吐いていた。
食事中、アルブレヒトに色々と言われた気がするが、三割くらい頭から抜けて落ちている気がする。ギフテッドの保険がどうの、レンタルの期限延長がどうのとあれこれまくし立てられたが、「一ヶ月後に定期メンテを行いたいのでジズレ本土まで来るように」と言われたことだけはかろうじて覚えていた。
一ヶ月後、か。どうなっているのかも想像がつかない。少しは彼との生活に慣れている頃だといいのだが。
「お疲れですか、マスター」
嘆息した様子を見て、ギフテッドが心配げに声をかける。
「……いや、大丈夫だ。それより、後で掌紋認証の登録を」
「はい、承知しました」
これから自宅には彼も出入りすることになる。部屋に着いたら、鍵代わりの掌紋を登録しなければならない。
一階のエントランスを抜け、エレベーターのパネルに掌をかざす。液晶に表示された「7326」の数字を見て、ギフテッドが少しだけ驚いたような声を出した。
「高層部ですね」
このマンションは百階建てだ。確かに彼の言うとおり、七十三階はマンションの中でも上に位置している。
「少し家賃は高いが、会社の補助もあるしな。上がよかったんだ」
「……?」
今はそれ以上説明する気にならない。それよりも、彼には言わなければならないことがあった。
エレベーターが着く。静かに開いたドアから出、角を曲がって少し歩く。そうして「7326」と表示されたパネルに再び掌をかざし、解錠してから、クウヤはゆっくりと息を吸い、その息に声を載せて吐き出した。
「シグ」
振り返ると、ギフテッドは不思議そうな顔をしていた。今の単語の意味を分かりかねているような表情であった。
「……シグ。……その、S、I、G、で、シグ、だ」
繰り返して発音し、綴りを告げると、ようやく意図が伝わったらしい。常に落ち着き、穏やかな笑みを掃いていた顔がぱっと明るくなり、そうするだけで少し、人間味を帯びた。
「はい」
嬉しそうだ。少なくとも、クウヤにはそう見えた。
そのことに心中で安堵しながら、ドアを開いて彼を招き入れる。
「ここが今日からお前の家だ」
ギフテッド――シグが玄関に入る。そこに並んだスリッパと、靴を脱ぐクウヤを見て、この家は西暦代の日本と同じ家屋様式だと理解したらしい。自分の後に同じように靴を脱ぐのを確認しながら、クウヤは大きめのスリッパを彼に差し出した。
「サイズ、合ってるといいんだが」
「ありがとうございます、マスター」
マスター。
そう呼ばれると、やけに心がざわざとして落ち着かなくなる。職場のロボットやこの家にある機器のAIだって、クウヤのことをマスターとは呼んでいない。「クウヤ」か「ミスター・アマサキ」だ。
「クウヤでいい」
「そう言われましても。あなたは私のマスターですから」
穏やかな口調だが、引くつもりはないとその笑みが言外に告げている。
今この話題を続けていても、おそらく勝算はない。軽く首を振って、クウヤは切り替えるようにダイニングのカウンター脇に置いている通信用端末の方へと向かった。
「……掌紋と虹彩の登録をしよう。えっと、モバイルは付属で持たされてるんだったか。掌紋はパネル、虹彩は上部にカメラがついてるから、そこで」
「はい」
端末の下部からパネルを出すと、シグは慣れた様子でそこに手をかざす。それを横目で見ながら、クウヤは彼のモバイルを操作し、自分のIDを登録した。これで、なにかあった時に連絡が取れる。
「掌紋と虹彩の登録、終わりました」
「ああ」
掌紋、虹彩とモバイルの登録が済んでしまうと、途端に手持ち無沙汰になった。
なんとも言えぬ沈黙が、二人の間に漂う。
気まずい。だが、そもそも世間話が得意な方でもない。
「マスター・クウヤ」
それでもなにか言わなければ、と口を開きかけると、先手を打つようにシグがクウヤを呼んだ。
「アルバネスト博士より、ギフテッドがお嫌いと伺いました」
「……違う、嫌いな訳じゃない」
まったく、余計なことを言ってくれたものだ。思わず眉をひそめ、クウヤは静かに言い返した。
「嫌いなんじゃなくて、苦手なんだ。一人が性に合ってるし、アルブレヒトが気にするほど危ない身の上でもないと思ってる。……それだけだ」
説明してもなお、なにか言いたげな眼差しが飛んできたが、それを無視して早口でまくし立てる。
「……お前のベッドは寝室の隣にある仕事部屋に用意してある。それから、食事はフリーザーに。いない間は適当に好きなものを温めて食べてくれ。……仕事はだいたい定時に終わるが、詰まってる時はそれなりに残る。帰りは連絡するから、悪いがオート・タクシーで迎えに来てくれ」
言い終えると、やはり穏やかな顔をしたシグと目が合った。少しだけ困った顔をしているが、無理矢理に切り替えたせいか、先ほどの話――ギフテッドが嫌いかどうかと言う話題のことは、忘れたように見えた。
「ええ、はい」
とりあえずは、そんなものか。
緊張しているせいか、やけに疲れた。気づけばもう夜である。
カロリーを摂取せねば、と思って、クウヤはカウンターの向かいにあるキッチンへと足を向けた。
シグが、後を追うようについてくる。
「……ただ食事を温めるだけだぞ」
「いえ、お手伝いします。食器は?」
「そこ。終わったら、下のあそこが食洗機」
食器棚と、次いでキッチン下部の引き出しを指して、クウヤはフリーザーの扉を開けた。
中には、通販で適当に注文した食事のセットが所狭しと詰め込まれている。
「……マスター、料理は?」
「するならこんなことになっていると思うか?」
「なるほど」
料理なんてしなくとも、冷凍された食品を温めれば十分に栄養を摂ることが出来る。
場所を聞くので反射的に答えてしまったが、本当ならばトレイから食器に移すのだって億劫なくらいだ。
だが、食器棚から皿を出すシグは、心なしかどこか楽しそうだった。
今日が初対面な上、彼はいつも微笑んでいる。だから、そう思うのはクウヤの勘違いかもしれない。けれども、口の端をゆるく上げて食器をカウンターに置く姿はやはり楽しげで、今更「食器なんていらない」なんて言い出すことも出来ず、クウヤはその背中をぼんやりと眺めるのであった。