「帰ったよ」
廊下からリビングに出ても、普段の通りくつろぐ吸血鬼の姿はなかった。
今日は土曜日。もう日が沈んでしばらくが経つから、教義の上では安息日だ。であるからこそ今日はなにもせず、どこにも出かけず、ゆっくりすごそうと思っていたのだが、肝心のその相手がいなかった。
「……シリル?」
もう六時はすぎている。いい加減に起きていないと流石におかしい。フロックコートも着たまま、鞄も持ったまま、ぼくは慌てて寝室へと向かった。
閉まったままのドアのノブを掴んだところで、小さな音に気がついた。吐息の音。少し荒い。
まさか――体調が悪い?
「ケ……」
「シリル!」
ぼくの名前、そのひとかけらが紡がれた瞬間と、ドアを大きく開け放ったのはほぼ同時であった。
ばさばさばさ、と音を立てたのは、手から落ちた鞄から書類がぶちまけられた音。
吐息はまだ荒く、シリルは口を開いて呼吸していた。
背を丸めて、足は軽く曲げてシーツに投げ出している。
「……ケイ」
急に現れたぼくに驚いたのだろう、目を丸くしているのは少し珍しい表情であった。
「……シリル」
落とした鞄もそのままに、ぼくはゆっくり、しかし大股でもって彼に近づいた。
「続けて」
ベッドのすぐ前に立って、見下ろして言い放つ。
はだけたシャツの他に、シリルはなにも身につけていなかった。
勃ち上がったものが、白い手のひらにくるまれている。
なにをしていたかなんて、聞かなくても分かった。
「……ん」
ぼくの冷酷とも取れる命令に反論することもせず、シリルはゆるゆると手の動きを再開した。
は、ふ、と息をシーツに漏らしながら彼がゆるやかに果てるのを、ぼくは夢を見ているような心地で見下ろしていた。
なにをしていても美しいなぁとか、そういえば最近忙しくてあまりベッドをともにしていなかったなぁとか、もしかしてすごくいいところで邪魔をしてしまっただろうか、とか、そんなことを考えていると、重い睫毛に縁取られた瞳と目があった。流石に少しばつが悪い。
「……手」
言うと、首を傾げながらも彼は手を差し出してくる。彼自身が吐き出した欲で濡れた白い手を。
「やはりうまくはないな。いくらきみのものでも」
掬い上げて、舌先で舐める。お世辞にもうまいとは言えない、苦くて塩気のある、なんとも言えぬ味に眉をひそめると、そうかな、と落ち着いてきた吐息とともにシリルが身じろぎして、のっそりと起きあがった。
「ケイのはまずくないよ。少し血の味に似てるからかも」
「はぁっ?」
そんなものにまで味が滲むものなのか? いや、同じ体液であるから当然と言えば当然なのか。悶々と考えるぼくの顔を見て、ふ、とシリルが細く息を吐く。
「ケイはどこも美味しいのかな。食べてみたら美味しいかも」
「……怖いことを言うな、きみは……」
ずるり、肩からフロックコートが落ちる。シリルが精液に濡れた手で袖を引っ張ったせいだった。
「……もしそうだとしても、その前に」
染みになったら落ちないんじゃないか、と考えながら、ベッドに乗り上げ、彼を押し倒す。その細い首に鼻先をうずめながら、ぼくは笑った。
「ぼくがきみを食らってしまうさ」