「あ」
かすれてきたペンを持ち上げ、インクを取り替えようとした時である。思わず声を上げて、ぼく、ケイ・リー・ドゥブレは持っていたインクの瓶の底を睨んだ。
「どうしたね、ドゥブレくん」
そう言ったのは、この地質層序学教室の主、オーバン教授である。
エドゥアール・オーバン。外見こそ少しふくよかで、穏やかなお父さんと言った感じの人だが、パリ大学にこの人ありと言われる層序学の権威である。
問いかけに答えるように、ぼくは瓶をゆらゆらと横にゆすった。
「空なんです。少しは吸えたんですが」
「それはそれは。私のでよければお貸ししよう」
「いえ、大丈夫です。オーバン先生とぼくのじゃ、色が違うでしょう」
オーバン先生は艶のある黒いインクを使っているが、ぼくは渋い紅茶のような色のインクを使っている。インクの色を変えること自体は出来るが、どうせ長年使っている色に戻すことを考えると、いっときのためにペンを洗浄するのが面倒だった。
「帰ったらどうだね。帰りに文具屋に寄るといい」
そう言って、オーバン先生はたっぷりと蓄えた灰色の髭をひと撫でした。彼の癖の一つだ。
「ですが」
「そも、今日は土曜日だよ、ドゥブレくん」
既に教員であるが、オーバン先生はずっとぼくのことを「ドゥブレくん」と呼んでいる。学生には時たま驚かれるが、教員になったところでぼくと先生の師弟関係が変わった訳でもないし、ぼく自体は特に気にしていない。
土曜日。そう、土曜日だ。本来ならば学校が休みのこの日になぜ出勤しているかというと、数日後にオーバン先生が出席する予定の学会の資料をまとめるのを手伝っていたのである。
土曜日。休日である。普段ならば、昼頃まで同居人――シリルを抱きしめて眠っている日だ。
ちなみに今朝彼に出勤のことを告げると、そう、とだけ返事をして、再びベッドに潜り込んでしまった。もしかしたら、今も眠っているかもしれない。
シリルを呼んで、カフェでなにか食べてから帰ろうか。そう思うと、途端に腹が減った。そう言えば、資料に夢中になるあまり昼食を食べそこなっている。
「帰りなさい。コティヤール嬢から聞いたが、今親類の子と暮らしているそうじゃないか」
言われて、ぎくりとした。ミネくん、教授に話していたのか。
一度ふらふらと大学まで来たシリルをこの研究室まで案内してくれたミネくんに罪はないし、むしろ感謝したくらいであったが、事情を知らない他人にシリルの話をされると、どうにも罪悪感が湧く。ぼくがシリルとどうして生活しているのか、どうやって日々を過ごしているのかを思い返して、いやにどきどきしてしまうのだ。
「……ええ、まぁ」
ぼくは曖昧に返事をしながら、広げていた資料の誤字部分に丸をつけた。校正くらいは、残りのインクでも出来る。
「では、お言葉に甘えて。電話を借りてきます」
「おお」
そうしなさい、と言って、オーバン先生が笑う。やはりどうにも居心地が悪い。
部屋を出て、研究棟の端にある事務室で電話機を借りる。
ぼくの家にある電話機は、数年前に亡くなった貿易商の父の家から引き上げてきたお下がりなのだが、使う分には申し分がない。と言うより、まだ企業や学校などにしか電話機のないこのご時世、個人宅に置ける時点でわがままなど言えようはずもないのだが。
交換手に自宅の番号を告げ、しばらく待っていると、電話の向こうから眠たげな声が聞こえてきた。
『Bonjour?』
「ぼくだ。その、今から出られないか?」
『ん……』
本当に眠たそうな声だ。恐らく、ティータイムの時間帯である今この時まで眠っていたのだろう。
「どうせ、きみもなにも食べてないだろ。そろそろ発表資料の校正が終わりそうなんだ」
『……よく、分かんないんだけど……』
迂闊に黙ると電話中に眠ってしまいそうな雰囲気である。ぼくは慌ててまくしたてた。
「兎に角、着替えて出なさい。乗合馬車に乗って、大学の辺りで降りて」
『……じゃあ、ええと、隣の博物館の、門の前』
「分かった」
言って、電話を切る。なんとなく話を聞いていたのだろう、受話器を置くと、事務員の女性がくすくすと笑った。
「先生、奥様いらっしゃいましたっけ?」
「……親戚の子ですよ。ちょっとなんて言うか、抜けてる子で」
奥様。奥様か。ぞっとしない響きだ。
愛想笑いを返して、研究室に戻る。資料の校正が終わり次第帰る、と伝えると、オーバン先生は目を丸くして「今すぐ帰ってもいいのに」と言った。
「いえ、やり途中は気持ちが悪いですから。それに、週が開けたらもう学会です」
「……きみは本当に、学生時代から変わらず真面目だねぇ」
「それは、どうも」
辞書を開き、資料に目を落とす。フランス語で書かれたスピーチ部分は終わりにさしかっており、次のページからは、ラテン語で書かれたポスター内容になっていた。
目を通しながら、誤訳がないか確認する。ぼくもラテン語が得意な訳ではなかったが、オーバン先生は時たま単語のスペルミスをやらかすので、じっと目を凝らし続けたせいで、終わる頃には首が痛くなってしまった。
「先生、こんなところでしょうか」
羊皮紙の束をまとめて、オーバン先生に渡す。先生は資料に視線を落とすと、うむ、うむ、と何度か頷いたのち、にっこりとぼくに微笑んだ。
「充分だよ。ありがとう、ドゥブレくん」
「いえ」
「しかし、確かにインクが厳しそうだ」
「す、すみません」
オーバン先生の言う通り、校正の後半になると時たま字がかすれてしまった。謝るぼくに、先生は変わらず微笑を返してくれる。
「いいから、帰りたまえ。その子も待っているだろう」
時計を見ると、電話した時から小一時間ほどが経過していた。電話に出た時が寝間着姿だったとしても、流石にそろそろ街中に着くはずだ。
「それでは、すみません。お先に失礼します」
オーバン先生に礼を言ってから、鞄とコートをひっ掴んで廊下に出る。土曜日の研究棟は人気もなく、ぼくが小走りで抜けていっても咎める人は誰もいなかった。
ぼくのいるパリ大学の隣の博物館――国立自然史博物館は、地質学の資料のほか、庭園も備えた広大な博物館である。
その質実剛健といったシンプルな造りの門の前に、幽霊がいた。
うなじまでの金色に近いふわふわとしたアッシュブロンドに、常に眠たげな、現実世界のことなど見ていなさそうにも思える伏し目がちの深い青の瞳。フリルの寄ったクラバットに、燕尾になった深いグレーのジャケットを羽織ったこの人形めいた美しさを持つ青年は、シリル――ぼくとともに暮らす、吸血鬼だ。
吸血鬼。おとぎ話や伝承の中の登場人物であるそれは、しかし確かに存在する。
日を浴びても灰にならず、水も銀も恐れず、人間と異なる点はただ一つ、相性のよい人間の血を吸うということだけ。そしてシリルと相性が合致した人間が、このぼくということになっている。
最初はにわかに信じがたかったが、相性のよい人間はそう巡り会えないのだと知って、ぼくは彼と契約を交わし――簡単に言えば、引き取ることにした。
それが、今年の四月のことである。
それからそろそろ二ヶ月近くが経とうとしているが、ぼくは未だにこのルヴナンの生態と生活をよく掴めずにいた。
本当にヒトと異なる点は吸血行為だけなのか、そして彼がなにを考えぼくとともに暮らしているのか――一向に理解出来る気配がない。
今日もこうして呼び出してみたものの、彼が喜んで来ているのかどうかも、その乏しい表情から伺い知ることは出来ない。嫌々来ていたらと思うと気も沈むが、しかし、少しでも彼を理解するために、出来る限り同じ時間を過ごそうと先日決意したばかりである。意を決して、ぼくは近寄りながら彼に声をかけた。
「シリル」
「ケイ」
いつものように、シリルがぼくを呼んだ。ぼくの好きな、少し細いが落ち着いた声だ。
門柱の前に突っ立っていた体が一瞬前屈みになって、ステップを踏んでぼくに近づく。近くで顔を見てみると、眠たそうな顔はやはり平素の通りなのだが、流石に本気で眠気自体は飛んだらしい、睫毛が軒先のように重く垂れた瞳は、きらきらと意志の光を灯していた。
「さっき、絵のモデルにならないかって、言われた」
「ああ……。それで?」
確かに、こんなに美しかったらそういう声もかかるだろう。驚きよりも納得が先にあって、ぼくは思っていたよりも冷静に話を促していた。
「人を待ってるから、って言った」
「……まぁ、そうだよな」
モデルをすることにした、と言われても、一応彼を管理しているという立場であるぼくが困る。
「それで、どうしたの。電話、珍しい」
シリルは単語がぶつ切りになったようなしゃべり方が多い。最初は話すのが苦手なのかと思ったが、しばらく接していて、単に他人と会話する経験が少なかったのだろうという結論に至った。実際、ぼくが話しかけても、シリルは特に拒む気配がない。
――拒む気配がないというのは、なにごとにおいても……それがベッドの上のことでもなので、判断材料にならないのかもしれないが。
(いや、やめよう)
こうして会話をしてくれるのだから、話自体が嫌いな訳ではないのだ。きっとそうだ。そう言い聞かせて、危うく週末の昼下がりから変な方向に脱線しかけた思考を引き戻す。
「ああ、文具屋に寄りたくて。それから、昼もまだなんだ」
「……もう、三時すぎてるけど」
「分かってるよ。ふわふわのオムレットが食べたい」
「じゃあ、先に食べる?」
「いや」
思わず彼の手を握ろうとしていて、はっとした。これがぼくの家の近くならばまだしも、ここは大学の近くである。カルチェ・ラタンで見知らぬ青年の手を引く教員の姿なんて、醜聞もいいところだ。
「先に文具屋に行こう。悪いけど、付き合ってくれ」
「うん」
と言っても、ここは学生街だ。文具屋なんて点々と存在している。ぼくの行きつけの店は大学から少し離れた店であったが、それでも歩いて五分くらいのところだ。
大通りから一本外れた細い通りに、赤と言うか経年劣化によってえんじ色になった看板を提げた文具屋がある。ここだよ、と指してやってから、ぼくはシリルとともに店の中に入った。
「いらっしゃい」
そう言って、カウンターにかけた老紳士がちらりと新聞から目を上げ、ぼくを見た。
「先生か」
「インクが切れてね」
「ふん」
短い会話が終わるや否や、用は終わったとばかりに店長は新聞に視線を戻した。シリルとはまた違う方向性で無愛想と言うか、ぶっきらぼうな人なのだ。
シリルはと言うと、初めて入る文具店に興味があるのか、ほとんど表情のない顔はそのままだが、棚のあちらこちらへ視線を泳がせていた。
必要がないから忘れていたが、そう言えば彼にはペンの一つも買ってやっていない。
「なにか買ってやろうか」
「ん」
言うと、シリルは静かに首を横に振った。
「いい。ペンは、ケイのがある」
「……まぁ、そうだけど」
万年筆の一本くらい欲しがったっていいものだが、本当に無欲というか、ぼくの血以外に大して興味がないらしい。
そう思うと、この地質学の研究以外に取り柄のないぼくにも少しくらい価値があるのではと思えてくるのだが、それが血なのだから少し複雑だ。相性がいいのは彼の舌とぼく血の話で、互いの性格がどうなのかは、さっぱり分からないし、いいと言い張れる自信もない。
「……ええと」
いつも通り、我が国の老舗文具メーカーの出している、紅茶の名を冠した濃い茶色の瓶を取る。いつの間にか並んでいる紙類から視線を戻していたらしい、隣に立っていたシリルが、ふぅんと声を上げた。
「ケイらしい」
「……いいだろ、落ち着いた色で」
「悪いとは言ってないよ」
まぁそうなのだが、少しの被害妄想くらい大目に見てくれ。
しかし、ぼくらしい、か。黒は単純すぎるからと避けただけなのだが、この色をいつから使っていただろうか。多分、教員になる前からだ。
定番である青みがかった黒や、もしくは小学校の標準色であるすみれ色でもなく渋い紅茶色を選んだのは、確かに直感と言う名の好みが少なからず影響しているのだろう。
考えながら、ちらりと隣を見る。ペンもインクも紙束もいらないらしい彼が、色とりどりに並んだインク瓶から、視線を感じたのか、ふとぼくの方を見た。
シリルの瞳の色は美しい。ぼくの母似の真っ黒い目と違って、彼はラピスラズリを砕いたような色をしている。
よく晴れた夜空にも似ている。見ていると吸い込まれてしまいそうな色だ。
少し考えて、ぼくはもう一つ、インクの瓶を手に取った。ラベルには、サファイアの名が記してある。
まさに宝石を思わせるような、鮮やかな深い青色のインクだ。今まで手を取ることこそなかったが、少しくらい別の色を使ったっていいだろう。
「なに?」
「いや、なんでもない」
きみの目の色だと言ったら、シリルはどんな顔をするだろうか。
……彼のことだ、いつもと同じく、なにを考えているか分からない顔で、確かにそうだねとでも言って頷くかもしれない。
シリルの問いかけには答えないまま、掴み取ったインク瓶二つを店長に渡す。渡した時に片眉を上げたのは、きっと普段買わない色を出したからだろう。
研究室で控えに使っているものと、家に置いてあるペンからインクを抜いて、色を変えよう。鮮やかな群青で字を書く度に、ぼくはシリルのことを思い出すのだ。