マルグリット暦二七六年七月二十五日、ジズレ・セントラル標準時午前六時。
眼前を覆うように配置された三つのホログラフィック・モニターに映し出された航路は緩やかな弧線を描き、その起点ではこの艦艇を示す艦船のマークがゆっくりと明滅していた。
つい先ほど、自分たち航行アシスタントが計算した航路である。
零れかけた溜め息を飲み込んで、意識して二度、瞬きをした。計算中は瞬きを忘れるので、その後は意識して瞬きをしないと眼球が乾いて仕方がない。
「交替時間です、ツガ」
背後に立った同僚が自分の名とともに淡々と交替を告げるのに合わせて、椅子から立ち上がる。
「連絡事項は?」
「特になし」
「了解しました」
「……それじゃあ、よろしく」
短い会話を終えて、出入り口にあるエレベーターへ向かう。歩みに合わせて、うなじで結んだ短い毛先が跳ねるように揺れるのが、見なくとも感じ取れた。
エレベーター前のセンサーに手をかざすと、小さく唸り声を挙げながら立方体をした箱が昇ってくる。ドアが開くや否や身を滑り込ませ、内部のセンサーへ先ほどと同じように手をかざせば、ほとんど音も立てずにドアは閉じ、滑らかに階下へと向かった。
エレベーターが動き出す直前、最後に見たブリッジは、至っていつも通りだった。
時折小さな会話こそ生まれるもの、それ以外はしんと静まり返ったフロア。中央に据えられた艦長のデスクと、その周囲を円形に取り囲むよう配置されたクルーたち。更にその周りに置かれた大小様々な機器。
そして、艦橋全体をぐるりと覆った巨大モニターを埋め尽くす漆黒の闇。
万物収集艦「アルバレーゴ」の中枢。あらゆる技能を持った木々の群れ。――それが、ツガの眺めている風景の常であった。
最後のノーベル物理学賞受賞者を祖先に持ち、ジズレの経済や政界に大きな影響を及ぼす一族であるアルバネストの運営する財団が所有する万物収集艦のうちの一つ、アルバレーゴ。
その名の通り、この宇宙のあらゆるものを収集しジズレで保管することを目的としたこの艦は、ジズレ近くに存在している複数の開拓途中の基地を立ち寄っては採取されたサンプルなどを回収して、母星へ戻るという循環した航行ルートを取っており、あと一つ基地に寄港した後は、母星であるジズレへ帰還する予定である。
造られてから一年ほどしか経っていない、教育と研修を終えたばかりのツガにとっては初めての航行であったが、幸いなことにこれまで大きなアクシデントにも見舞われず、平穏な任務が続いている。
昇降機の行き先は、食堂や医務室、そしてクルーたちの居室がある居住区のフロアだ。
――食堂で簡単に食事を済ませて、シャワーを浴びて眠ろう。
これもまたいつも通りである予定とも言えぬ今後の算段をつけたところで、ようやくブリッジでは堪えていた溜め息が零れ落ちた。
いつも通り、いつも通り、いつも通り。
平穏で平坦な日々の繰り返しを、退屈だと言う人間もいるかもしれない。
――退屈だなんてとんでもない。なにごともなく業務をこなし続けること自体に愛着はないが、その繰り返しこそがツガを構成しているのだ。
「ツガ!」
エレベーターがロビーエリアに着く。乗った時同様、開いた直後に昇降機を降りた途端に、軽快な足音とともにツガを呼ぶ声が聞こえた。
再び、静かに嘆息する。
サンプル保管に用いる機器の整備クルーの一人であり、平穏、平坦をよしとするツガの生活に混ざるただ一つの異分子。それが、にこにこと愛想のよい笑みを浮かべてこちらに歩いてきていた。
「……ヒューゴ・グッドマン」
「うん。お疲れ様、ツガ」
「……ありがとうございます」
小さく会釈して、横をすり抜けるようにして通り過ぎた、つもりだった。だが、彼は相変わらずにこにこと――ツガにしてみれば気の抜けた笑い顔で自分の後をついてくる。
「今日のブリッジはどうだった?」
「アクシデントが起きれば艦内にアラートが鳴ります。航行はつつがなく、順調に」
「そう、よかったね! これから食事?」
「……そうですが」
「おれも食堂行こうと思ってたんだ。一緒に行っていいかな」
そう言って、ヒューゴが背後からぐっと身を伸ばして、行く手を遮るように覗き込んでくる。
赤みの強いくすんだ茶髪は、分けられた前髪や毛先のところどころが跳ねているから、整髪料を使っているのだろう。以前ファッションのためにかけていると言っていたメガネのフレームの輪郭が、艦内の照明を受けて白く浮き上がっている。
髪と同じ色をしたアーモンド形の瞳は、屈託なく、悪気なくツガを見つめていた。
――なにもかもが、ツガとは違う。正反対と言ってもいい。
ツガと彼の共通点など、性別が同じというくらいだろう。
ツガの髪は明るいライトブルーだし、長さだって肩につくかどうかくらいは伸びていて、普段はうなじで結んでいる。瞳の色も髪より少しばかり青が強いだけで色合いは同じようなものだし、背丈だって百六十五センチほどだ。彼は百八十センチ近くはありそうだから、十センチ以上は違う。
年齢を聞いたことはなかったが、二十代半ばほどだろうか。ツガは外見年齢を十八に設定されているから、なにも知らぬ人間が二人を見たら、少年と青年が話しているように見えるだろう。
そして、外見以上に、二人の間には決定的な違いがあった。
「……どうぞ、ご勝手に」
この艦内の――そして艦内だけではなく、この世の中のヒトと呼ばれる生き物は、大きく二種類に分けられる。
一つ目は、人間。女性の胎で育ち生まれる、地球にいた時から変わらない生物だ。
二つ目は、「ギフテッド」と呼称される、いわゆる人造人間である。
人類が地球からラーン星系の惑星・ジズレへ移住した頃に生み出されたギフテッドは、遺伝子操作を施され、培養ポッドで指定された年齢になるまで急速成長させられ社会に出る。そうして、人間たちに付き従い、奉仕するのがギフテッドの常であった。
ヒューゴは人間――与えられた者がまれに使うことのある皮肉めいた呼び名で言うところの愛された者で、ツガはギフテッドである。
「用途」なしでギフテッドは存在しない。
たとえば、ツガはこの艦の航行アシスタントだ。艦艇の巨大システムと接続して、それ用に調整・教育された脳で、その時に一番最適な航路をナビゲーションする。それ以上でも、以下でもない。
遺伝子操作されたギフテッドよりも明確な遺伝子上のルーツを持ち、睡眠学習以外の教育を教育機関で受けているヒューゴとはそもそもが違うのだ。――と言っても、それを羨んだことは一度もないが。
だからこそ、ヒューゴの言動はツガにとって理解が出来なかった。本来であれば交わることのない、交わる必要もない相手に何度も話しかける必要性も、理由も、なにもかもが理解出来ない。
これまでの生活でギフテッドと関わることがなくて、物珍しさから構っているとか? ――そんなはずはない。ギフテッドなんて、ジズレにもこの艦内にも、あちこちに存在している。もはや人類は、ギフテッドなしに日常生活を送ることは出来ないのだから。
(……考えるの、やめよう。とりあえず、食事)
笑顔でツガの隣を歩く男のことは極力考えないようにしながら廊下を進み、大きな区画の前で立ち止まる。パネルへ手のひらをかざし、掌紋センサーのドアを開けると、すぐさまふわりと複雑な香りが鼻をかすめた。
様々な食材が混ざり合ったこのにおいこそ、食堂の特徴の一つであろう。
深夜から明け方までのシフトが終わったばかりだからか、食事をする人はまばらだった。
慣れた足取りでカウンター横の大きな冷凍庫へ向かい、引き戸を大きく開いて中からレディー・ミールのパックを一つ取り出し、そのまま隣のカウンターに置かれたマイクロウェーブ調理器にパックを入れて調理開始ボタンを押す。小さな唸り声を上げて調理器が動き出したのを確認してからちらりとヒューゴの方を見やると、彼はカウンターに設置された小型モニターを操作しているところだった。
長い航行の間飽きぬようにと、大きく横に広がったカウンターの奥には全自動調理ロボットが配置されている。彼はそちらでなにか注文するのだろう。
ドリンクのボトルがぎっしりと詰め込まれた冷蔵庫から水のボトルを取り出したところで、調理器が小さな電子音を立てる。中から温められたパックを取り出していると、いつの間にか大きなサラダボウルを持ったヒューゴが横に立っていた。
「ね、窓際で食べようよ」
「……ええ、はい。わたしはどこでも構いません」
甘えるような口調に冷淡に返しても、ヒューゴは笑ったままだった。
じゃああそこね、と彼が指し示した席に座って、パックの上部を覆っていた薄いフィルムをはがす。
野菜のマリネに小さなオムレツ、それからパン。
緊急事態下で高速演算をする際に吐き気を覚えないよう、勤務シフトが詰まっている時は極力固形物を摂らないようにしているが、この後は一日近く休みがある。ツガにとっては数日ぶりの食事らしい食事だったが、そこにさほど喜びはなかった。
ギフテッドにも多少の個体差はある。中には勤務の合間の食事を息抜きと捉えているギフテッドもいるようだが、どうにも自分は食にそこまでこだわりがない性質らしい。
胃に収まって栄養が摂れるのであれば、高カロリー飲料にも食事にも大した差はない。
だが、目の前で大盛りのシーザーサラダを食べている男はそうは思っていないようだった。
以前、何週間も高カロリー飲料で食事を済ませていたツガに、「ご飯はちゃんと食べなきゃだめだよ」と言ってきたことがあったのだ。
百人以上いるクルーのうちの一人である彼を個人としてきちんと認識したのも、それがきっかけだった。
その時のヒューゴはそれはもうしつこかった。「ただの栄養じゃなくて、見た目や味だって大事なんだよ」と、食堂以外でも、会う度に何度も食事の必要性を説いてきた。それ以来彼がツガの勤務終わりに待ち伏せするようになったのも、勤務後にまともな食事を摂るのか見張るためなのだろう。
そのしつこさに懲りて、こうして食事に誘われてしまった時は、なるべく彼が言うところの「ちゃんとした食事」をするようにしていた。
「またそのメニュー? 飽きない?」
ツガの手元を見たヒューゴが、首を傾げて問いかけてくる。
「飽きません」
確かに、これまで何度も食べた味である。だが、食事を重要視していないツガにとっては、どんな味をしていようが、たとえそれが幾度も食べたことのある味であろうが、食事であることに変わりはなかった。
「ルーティーンみたいな? ロボットが作るイタリア料理とかも美味しいよ?」
「結構です。わたしにはこれで充分です」
「ふうん……」
きっぱりと言い返すと、興味を失ったのかある程度納得したのか、ヒューゴは短く相槌を打ってから窓の外を見つめた。
見飽きたと言う表現すら褪せて陳腐になるほど見た、宇宙空間を覆う闇。ジズレの都市の景観でも投影した方がよほど面白みがあるだろうそれを、ヒューゴはぼんやりと眺めている。
「今日はきれいだね」
「……え?」
反射的に聞き返してしまって、反省した。人間がなにを感じようが、なにを思おうが、ギフテッドには関係ないのに。
「なにも見えないでしょ?」
ツガが自省しているとはかけらも気づいていないだろう、ヒューゴは窓から手元のサラダボウルへと視線を移し、レタスやベビーリーフを数枚まとめてフォークに刺しながらそう言った。
「……ええ。業務中、デブリも小隕石群も見ませんでした。しばらくはこの状態かと思います」
静かに頷いて、当たり障りのない返答をする。短い沈黙の間に、しゃくりとフォークが葉を貫く音が響いた。
「ツガたちのお陰だね」
「航行アシスタントはクルーの命を預かる重要な役目の一つですから、当然のことです。……そうやってなんにでもありがたがるのはあなたの美点かもしれませんが、ギフテッドに感謝する必要はありませんよ」
サラダを口に放り込む直前に投げかけられた親しげな感謝に、皮肉っぽく言い返す。
必要だから存在しているだけの自分たちに、過度に感謝を覚える必要はない。
ロボットには細かい航路の調整は出来ない。AIは緊急時の柔軟な対応や演算には向いていない。だから、高速演算処理が出来るヒトがその任にあたっているだけだ。
「……」
ツガの言葉に、ヒューゴはぽかんと口を開けて黙り込んだ。
唖然、と表するのが正しい表情だが、間違ったことは言っていないはずだ。
「グッドマン?」
彼にしては沈黙が長い。もしかして、傷つけただろうか。
コミュニケーションは難しい。ツガには苦手な分野だ。なにがいけなかったのかは分からないが、とりあえず謝ろうか。
そんなことを考えながらファミリーネームでヒューゴを呼ぶと、彼は開いていた唇を一度閉じてから静かに瞬きした。
「……ツガ、今おれのこと褒めてくれた?」
「……は?」
瞬きののちに現れた赤茶の瞳は、きらきらと輝いている。その奥に潜むものが期待なのか喜びのか判断しかねて、ツガは嘆息と悟られぬように小さく息を吐いた。
「相変わらずポジティブですね」
「えっ、それも褒めてる?」
「……」
肯定も否定も返すのが馬鹿馬鹿しくなって、なにか言う代わりに黙って立ち上がった。
もうパックの中身は空になっている。ヒューゴの方だって食べ終えているようだし、無駄な会話は適当に切り上げて、さっさと居室に帰ってしまおうと思ったのだ。
立ち上がってパックをダストボックスへ放り込んでいると、流石にこの食事が終わりであることに気づいたのだろう、ヒューゴも洗浄機につながったレーンへと食器を片づけた。
「……ツガ」
どちらともなく、入ってきた時よりはうんと静かに食堂を出る。自分の居室に向かおうと廊下を歩き出したところで、後ろからヒューゴがツガを呼んだ。
「……はい」
返事をする間に、ヒューゴは大股でこちらに近づいてくる。
「おやすみ。いい夢を」
「……ありがとうございます」
小さく下げた頭を持ち上げると、ヒューゴがカーゴパンツのポケットへ突っ込んでいた手をゆっくりと差し出した。
上を向いた手のひらには、小さな包みが載っている。カラフルな印刷がされた包装紙のそれは、恐らく菓子のたぐいだろう。
「はい、これ」
「……その。グッドマ……」
「よーし、おれももうちょっとだけ寝よっと!」
大きな手でぎゅっとツガの手を包んで無理矢理に渡してきたかと思うと、こちらがなにかを言うよりも早く、ヒューゴは逆方向へと廊下を歩いていってしまう。
「またね、ツガ! おやすみ!」
何度も振り返っては大きく手を振ってくる彼にもう一度だけ頭を下げてから、握り込まれたままの形で固まっていた手のひらをそっとほどく。
ほんの小さな、一口で食べ終えてしまうだろう菓子が、手のひらにかかる重量以上に重たく感じる。
今の言葉からすると、彼はツガを待ち伏せるために――食事を見張るために一度起きたのだろう。
変な人間だ。そこまでする必要はないのに。
(……いらないのに)
声なき呟きはアルバレーゴの中を一瞬だけ漂って、空気と同化して消えていく。
――善意の押しつけなんて、優しさのお裾分けなんて、他のヒトにすればいいのに。
◆
次の勤務を終えた時、ヒューゴはいなかった。
彼が毎回ブリッジの下にいる訳ではない。勤務シフトが被っている時だって、もちろんある。
だから、寂しさや物足りなさは感じなかった。むしろ、エレベーターを降りて人影が見えないのに安堵をしたくらいだ。
とやかく口を出してくる人間がいないのにわざわざ「食事」をする必要もない。食堂に立ち寄り、冷蔵庫から高カロリー飲料と水のボトルだけ持ち出すと、ツガはそのまま居室へと戻った。
センサーへ手のひらをかざして、細長いドアを開けて自室に入る。
小さなデスクとベッド。オペレーションに必要な学習と最低限のニュースを受け取るための軟質液晶とモバイル、そして常に手首に着けているバンド型デバイス以外には物のない、殺風景な部屋だ。
デバイス類も、この艦に勤務となってから支給されたものだ。この艦に持ち込んだ私物など、ツガには一切ない。
(……ああ、でも)
私物と呼べるものが、一つだけあった。
――デスクの片隅にある、小さな山。これまでヒューゴがツガに渡してきた菓子が積み上がって出来たものだ。
チョコレートと、長期保存の可能なクッキーの小さな包装。
色とりどりの山を、ツガはこれまで一度も崩したことがなかった。
ツガは生み出されてからこれまで、菓子などの嗜好品を食べたことがない。
だが、もらってしまった以上、妙に罪悪感が湧いてしまって捨てることも出来ない。だから数回に一回は直接「いりません」と言っているのだが、遠慮とでも思っているのだろうか、ヒューゴはそんな言葉も歯牙にかけず、会う度に菓子を渡してくる。
「ベジタブル・フルーツミックスフレーバー」と印字された高カロリー飲料の封を開け、口に含む。甘味料と香料で味つけされた、スムージーのようにわずかに粘度のある液体が、喉を伝って胃に落ちていった。
人によってはこうしてカロリーを摂取することを人工的で無機質だと感じるらしいが、ツガにとっては慣れた味だった。
食材によって異なる味や食感、製法。それは確かに食事に彩りや変化を生むだろう。しかし、そんなもの、自分には必要ない。
この菓子の山だってそうだ。私物として艦内に持ち込み、他人に渡してくるくらいだから、ヒューゴはこういったものが好きなのかもしれない。――でも。
(きっと、わたしには甘すぎる)
◆
「グッドマン。ツガです」
『ツガ……?』
ボタンの横にあるスピーカーから、ヒューゴの声が聞こえてくる。ノイズが混じっているからか、それとも体調がそうさせるのか、声は少しかすれて震えていた。
『……その、ごめん……おれ今、風邪引いちゃってて……出たらうつっちゃう……』
「宇宙流行性感冒のワクチンなら接種済みです。ドアを開けて下さい」
衣擦れの音がした後に、スピーカーから音声が途絶えた。
ドアが開く。出てきたヒューゴの姿は、今まで見たことがないものだった。
寝間着なのだろうか、襟ぐりのゆったりとした濃いベージュのスウェットの上下に、靴ではなくスリッパを履いている。セットされていない短い前髪は垂れていて、眼鏡もかけていないからか、普段よりうんと大人しく感じられた。
「体調が悪いところ、すみません。ドクターから食欲がないと聞いて、経口補水液と高カロリー食を」
言いながら、ボトルとビスケットのパックを差し出す。
手渡した瞬間、わずかに触れ合った手が熱くて驚いた。弾かれるようにして見上げた顔は、いつもよりも赤みを帯びている。
脳に刷り込まれた情報はあっても、発熱している人間を見るのは初めてである。そうか、風邪を引くというのはこういうことなのか、と思っていると、腕の中の食料を見下ろしながらヒューゴが小さく口を開いた。
「ありがとう……」
声は弱々しくかすれていて、しゃべるのもつらそうだ。元から長居などするつもりはないが、さっさとこの場を去るのが彼のためだろう。
「感謝ならば、わたしではなくドクター・フィアンマへ」
それでは、と会話を切り上げようとしたところで、潤んだ瞳と目が合った。
「……でも、来てくれたのはツガじゃない」
「……ブリッジ勤務でない人間のクルーはワクチンは任意接種でしょうが、今後は接種を検討した方がよいでしょう」
なんと返したらいいのか分からなくて、微笑む瞳から逃げるように俯いて、早口でまくし立てる。
視線を足元に向けると、ツガの白いショートブーツの向かいに、なんらかの植物の刺繍がされたスリッパが向かい合っているのが見えた。支給品とは違うデザインだから、わざわざ持ち込んだのだろう。
「うん、そうだね。――ねえ、ツガ。その……、お願いがあるんだけど……」
「……内容によります」
相変わらずかすれた声が、甘えるように響く。いつも鬱陶しいくらいに快活な彼とはあまりにも様子が違っているせいで、上手く突っぱねることも出来ない。
◆
「……あー、地球、行ってみたいなー! どんな星なんだろう! ……って言うと、みんなに変わってるって言われるんだけど」
椅子に背もたれがあると思ったのか、体が後方に傾いていく。反射的に手を伸ばして背を支えると、ずしりとした重みが手のひらに伝わった。
普段、ホログラフィック・モニターを見つめ、キーボードを叩き、物を持つとしたら食べ物の載っているトレイか軟質液晶くらいであるツガの手には、重すぎる。
質量と温度のある重み。これがヒューゴを構成しているのだ。
「……でも、ツガは話を聞いてくれた」
ツガの手に背を預けたまま、ヒューゴは嬉しそうに目尻を和ませた。
これまでよりも近い距離で会話をしているからか、それとも体の一部に触れているからなのか、いやに「ヒューゴ・グッドマン」という存在が生々しく感じられた。
息づいていて、あたたかくて、重みがある。しゃべる直前、肺の辺りが膨らむのまで手のひらに感じてしまって、ツガは慌ててそっと手を離した。
「……部屋に入った時から思っていたですが、この音楽は? 古い曲調ですが」
ただなんとなく口を挟めなかったからですよ、とは言えず、口から出たのは先刻から感じていた疑問であった。
「あはは、正解。西暦代の民族音楽だよ。こうやって地球で流れていた音楽を聴きながら地球の本を読むのが、おれの趣味」
これまでの自分なら、懐古趣味ですね、とでも言っただろうか。楽しそうに好きなものについて語る彼の姿を見てしまったせいで、皮肉もはばかられてしまう。
「そうだ」
なにか思いついたのか、言いながらヒューゴがズボンのポケットからモバイルを取り出した。
ボリュームを操作したのか、音楽が大きくなる。理由を尋ねる前に、立ち上がったヒューゴが満面の笑みでツガを見下ろした。
「踊ろう!」
「はぁっ?」
伸びてきた手が、ツガの手を掴んで引き上げる。とっ、とっ、と軽い足取りで椅子の並ぶ狭い空間を抜け、なにも置かれていないスペースまで導かれると、まるで見計らったように、これまでゆるやかに紡がれてた曲調が、弾むようなリズムを奏でだした。
ヴァイオリンと、フルートと、それから、民族楽器なのだろうか、木管楽器のような、深みのある音色。それらが混ざり合って、軽やかに歌い踊る。
二人のステップは、曲調のようなものとはお世辞にも言いがたいものであった。ステップはただその場で足踏みしているだけであるし、ツガの体は手を繋いだヒューゴの動くがまま揺れているだけだ。
ダンスと呼ぶには不格好な、ぎこちない動き。それなのに、ヒューゴは楽しそうだった。
「……これも趣味、ですか?」
「ううん、初めて!」
きっぱりと言い切ったのに呆れるより早く、ヒューゴがあはは、と笑い声を上げた。
「でも楽しいね!」
「……こんなに下手なのに?」
「下手なのはツガもでしょ!」
(ああ、もう)
そんな風に朗らかに笑われては、皮肉を返したって意味がないではないか。
「……やはり、あなたは変わっていますよ。ヒューゴ」