「此方輝く黒星に」サンプル (R-18)

 マルグリット暦二七五年、一月某日。
 惑星ジズレの衛星軌道上に存在するコロニーの一つ「ティグリス」では、気候が制御され、ジズレに到来している冬の寒さも別の星の出来事のようである。
 ギフテッドのシグは、初めてすごす冬の「らしさ」も感じぬまま、オート・タクシーでティグリスの大通りを走り抜けていた。
 窓の向こうには、無機質なビル群。そのあちこちに明かりが灯り、夜のメインストリートを照らしている。大通りの交差点を抜けたところで減速し、停止した車を待機状態に設定してタクシーを降りると、ちょうど目の前の大きなビルから、一人の男が出てくるのが見えた。
 一言で表すのならば、男は冷ややかな美しさに彩られていた。
 身長は百八十に少し届かない程度。淡いグレーのシャツに、ラフな濃いネイビーのジャケットと、同色のパンツを穿いている。
 地球の日本をルーツに持つと言う、アシンメトリーに整えられた真っ黒い前髪が、歩く度にさらさらと揺れる。髪と同じく漆黒の涼やかな瞳は伏せられ、手元のモバイルを見たかと思うと、くいと持ち上がり、不意にシグを見つめた。
 目があった瞬間に、冷涼な表情が、わずかに崩れる。眩しいものでも見るように目を細め、薄い唇をわずかに吊り上げる。そうして微笑んだ男は、早足で近づくなり、笑みを形作ったばかりの唇をほどいた。

「シグ」

 落ち着いた調子の声色を少しだけ優しくさせて、シグを呼ぶ。それがたまらなく好きであった。

「……お疲れ様です、マスター・クウヤ」

 男の名はクウヤ・アマサキ。このビル――業界シェアトップを誇るセキュリティ会社、アイギス・カンパニーで装置開発に携わる研究員であり、シグのマスターである。
 ギフテッド――遺伝子操作された人間であるシグは、初期の調整を受けた後、護衛として彼とともに生活するようになった。
 本来ならば余計な――護衛対象に対する行きすぎた感情は制御されているはずの護衛用ギフテッドであるが、調整を施したクウヤの友人であるアルブレヒト・アルバネスト博士の計らいにより、シグには感情のリミッターがない。その、なににも制限を受けていない感情のまま、シグはクウヤと出会い、暮らしていく中で、彼に強く惹かれるようになっていった。

『……好き、なんだ。お前のことが』

 クウヤと出会って一ヶ月ほどが経ったある日、会社を襲撃した狙撃者から彼を庇った後のことを、昨日のことのように鮮明に思い出す。
 好きだと言って抱きついてきて彼のことを、シグは持てる限りのもので愛した。
 クウヤに対して抱いている感情は、清らかなものだけではない。その細い腰に手を回して、抱きしめ、キスをして、そうして内側まで侵してしまいたい。そう自らの感情を吐露したシグを、クウヤは恥じらいながらも受け入れてくれた。
 独り占めしたいと甘く囁いて、レンタルであったシグのオーナー権をプラントから自らに移したクウヤとの生活も、来月で半年が経つ。
 年を新たにしたところで、彼と自分の生活に変化はない。ただ、近頃の彼の横顔は、いつもよりも少しだけ疲労の色が濃く見て取れた。

「タクシーを停めております。今日はどこか、立ち寄られたい場所は?」
「いや、ない。家に帰ろう」
「ええ」

 彼を導き、先ほど乗ってきたタクシーの後部座席へ再び乗り込む。車の前方――西暦代では運転席があった場所辺りにある運転AIへ声をかけ、住まいであるマンションの住所を告げると、車は数秒後に滑らかに走り出した。

「……今日もお疲れのご様子ですね、マスター」

 自動運転の中、タクシーに乗り込むなり溜め息を吐いた彼へ声をかける。恐らく無意識だったのだろう、シグの言葉に、クウヤは細い眉を八の字にした。

「悪い。遅くに迎えに来させて」

 時刻は夜の二十三時。地球と異なり、一日の長さが二十七時間となっているこの星にあっても、遅いと言っていい時間だ。

「いえ、そう言うつもりでは。遅くまでお仕事をなさってお疲れなのは、マスターの方でしょう?」

 シートに体を預け、深く息を吐く。そうして、クウヤは降参したように、まぁな、と肯定の言葉を口にした。

「ちょっと疲れた。でも、それも明日で終わりだからな」

 クウヤの所属するチームが携わっているセキュリティ装置の実証実験が、明日へと迫っている。それもあって、この二週間ほど、クウヤは残業続きであった。
 実証実験は惑星本土の商業施設で行われるため、無闇に期日を延ばす訳にもいかない。日々夜遅くに帰宅し、軽い夕食を摂った後、泥のように眠り、出社する。真面目な性格をしているからだろう、休みの日も仕事のことが頭から離れないようで、ここ数日は家にいても心ここにあらず、と言った感じであった。
 それも明日で一区切り、か。

(無事に終わればいいのだが)

 シートにもたれたクウヤの頭が、ずる、と動いて、隣に座ったシグの肩に触れた。

「……悪い、着くまでこのまま……」

 ふあ、とクウヤがあくびをする。こつりと肩口にぶつかった額の硬さと、触れ合った腕の温かさに、少しだけ心が跳ねた。
 じきに浅い眠りに就いたクウヤの髪へ、そっと手を伸ばす。目元にかかる毛束を払うと、一重の瞳の目元には、うっすらと隈が出来ていた。

(……マスター)

 あまり根を詰めては、と言ったところで、程々にすることが出来ない性格であることは、とうに承知している。普段家で彼の帰りを待つことしか出来ないシグに出来るのは、明日無事に実証実験が終わることを祈ることだけだ。
 会社から家に着くまで、十数分間ほど。ほんの短い間の微睡みを守りたくて、シグは息を潜めるのであった。

 ◆

「……ふう」

 湯気を纏いながらバスルームから出てきたクウヤが、気持ちよさそうに吐息を漏らす。それにつられるように安堵を感じながら、シグはコンロにかけていた鍋を取り上げた。

「改めて、今日もお疲れ様でした、マスター・クウヤ。ココアを作ったのですが、いかがですか?」
「ああ、ありがとう。もらうよ」

 帰宅し、レディー・ミールを温め食事を摂ると、クウヤはすぐさまバスルームへと向かった。シャワーでいい、と言う彼へ浴槽に浸かるよう強めに言ったお陰か、バスで充分に温まってきたらしい。ドライヤーでざっと湿り気を飛ばした髪はまだ少ししっとりとしていたが、マグカップを差し出した際に触れ合った指はぽかぽかと温かかった。

「そう言えば、明日の実証実験、ちょうど週末だろ?」
「ええ」

 ふうふうと息で冷ましながらココアをちびちびと飲み、クウヤが思い出したように切り出す。話の行く先が分からず、とりあえず相槌を打つと、彼はカップを手にリビングのソファーへと座った。
 鍋を食洗機に任せ、自分もカップを片手にその隣へ腰を下ろす。話の続きを催促する代わりにじっと見つめると、視線に気づいた彼がふ、と小さく笑みを零した。

「一日休みを追加して、三日間休もうと思ってるんだ」
「そうですか。ここ暫くずっと働きづめでいらっしゃいましたから、いいのでは?」
「いや、その」

 いささか甘ったるいココアで唇を湿らせたかと思うと、クウヤはシグに対し予想外の一言を放った。

「家に帰ろうと思って」
「……はい?」

 家、と言うのは、今いるティグリスの高層マンションのことであろうか。
 だが、それは毎日していることで、取り立てて言うほどのものではない。では、と脳に刷り込まれた知識を総動員して、導き出された予測に、シグはぎくりと体を強張らせた。

「実家だよ。ジズレにある、僕の家」

 シグの動揺に気づいた様子もなく、クウヤは決定的な単語を口にする。それは、シグが予想した通りのものであった。

「……ご実家、と言いますと」
「新ストックホルム市にあるんだ。……ええと、母とは一度通話をしたことがあるだろ?」

 確かに、一ヶ月ほど前にモバイルから映像をリビングの壁に投影し、クウヤの母と通話をしたことがあったが、それにしたって急な話だ。

「ニューイヤーに帰れなかったからさ、帰ろうかと思って」
「以前はいつ帰られたのですか?」
「……社会人になってすぐ、だったか?」

 そう問われても、その時まだ生まれてもいないシグには分かるはずもない。だが、言葉通りであるのならば、数年地元に戻っていないことになる。

「それは……私も同行してよろしいものなのでしょうか?」
「お前、一人でティグリスに残るつもりか? ……嫌じゃなければ、ついてきて欲しい。だってお前は、僕の家族だろう?」
「……」

 あっけらかんと言って、クウヤは残りのココアをぐいと飲み干した。どうやら、話は決まりらしい。

「カップ、お預かりします。マスターはもうお休みになられた方が」
「ああ、……っと」

 帰ってからカフェインを摂っておらず、風呂上がりと言うのもあるだろうが、それにしたって眠そうだった。
 だが、シグの勧め通りに眠る準備をしようと立ち上がりかけたクウヤのすぐ脇で、彼のモバイルが振動した。数秒の間、鳴動と停止を繰り返すそれは、通話の許可を求める音だ。

「……もしもし? ……ああ」

 クウヤが耳にモバイルを当てる前に一瞬見えた表示には、「アルブレヒト」とあった。クウヤの友人であり、シグの最終調整を行った、ギフテッドの脳開発を行っているアルブレヒト・アルバネスト博士だ。
 キッチンに向かい、食洗機から鍋を取り出し、代わりに二人分のカップを入れる。カウンターテーブル越しに見たクウヤは、いつもの涼しげな顔で通話を受けていた。

「なんだ、……ああ、うん。そうか。ちょうどよかった、週末はそっちにいるんだ。実家に戻るつもりなんだが、それまでの時間なら……」

 そこまで言ったところで、クウヤは面倒そうにモバイルを顔から離した。再び耳に当て直したかと思うと、盛大に息を吐く。

「なんだよ、実家嫌いのお前と違って、僕だってたまには帰る気になる」

 しかめ面で淡々と言葉を吐き出すさまに、つい笑いそうになった。恐らく、通信の向こうでアルバネスト博士が驚いたのだろう。

「……え?」

 眉根に皺を寄せていた表情が、固まった、ように見えた。

「……それこそ、お前にとやかく言われる筋合いはない」

 口調が先ほどとは違い、硬いものへと変わっている。どうしたのだろう、と通話をする彼の隣に戻ると、耳に当てていたモバイルから、かろうじて声が聞こえた。

『そうは言ったって――ギフテッドと付き合うのはなかなかに面倒だぜ、クウヤ。お前だってそれは分かってるだろ』

 まるでクウヤの緊張が伝染したかのように、ぎし、と心が軋む。

『性別がどうの、なんてつまらない理由で恋愛に口出しされていた時代は西暦代でとっくに終わったが、それとギフテッドの問題は別だ。俺やお前の周りみたいに、みんな理解がある訳じゃない』

 漏れ聞こえているとは言え、常人には聞き取れないほどの小さな声だ。だが、生憎とシグは常人ヒトではなく、体と脳を調整されたギフテッドである。視覚と聴覚は、ただの人間よりも優れている。
 そのギフテッドの身が、少しだけうらめしくなった。平素、クウヤを守ることが出来ると誇らしく思っている身ではあるが、話を盗み聞きしたい訳ではないし、聞いていいような内容でもないだろう。

「それでも」

 隣のクウヤが、きっぱりと声を上げた。はっとして彼の方を向き直ると、いつの間にか彼もシグの方を見つめていた。
 目を細めて、微笑まれる。いつもの彼の微笑であった。

「僕は、シグから離れない。そう決めたんだ」

 通話の向こうで小さく笑う気配がした。なにを言ってもムダだろう、と諦めるような、少し呆れの混じった笑みであった。

「とにかく、明後日の午前中でどうだ? ……ああ、また連絡するよ。それじゃあ」

 モバイルを顔から離し、クウヤが通話を切断する。そうした後に、彼は長い溜め息を吐いた。

「マスター?」
「実家に帰る前、アルブレヒトとエクレチカに会うことになった。たまには本土で茶でもどうだ、と」
「そうですか」

 エクレチカ――エクレチカ・レチカは、アルブレヒト・アルバネスト博士が主幹研究員となっているプロジェクトのテスト体ギフテッドであり、アルブレヒトの恋人のような存在である。見た目は快活な少年の姿をしているが、情報処理能力や知識などは、護衛用ギフテッドであるシグなど遠く及ばない。

「……と言うか今の、聞いてたか?」
「はい。……その、聞くつもりは……」

 恐縮しながら返すと、クウヤは小さく肩を竦めた。

「いいんだ。それより……悪い」

 こつん、と彼の額が胸にぶつかる。

「お前にそんな顔させたい訳じゃないんだ、僕は」

 そんな顔とは、どんな顔だろうか。
 近くなった頬を撫で、くいと顔を上げさせる。眉尻を下げ、不安そうな顔をしているのはクウヤの方で、彼の言を借りればシグの方こそ、クウヤにそんな顔をさせたくてともにいる訳ではないのだ。

(なにをどうしたところで、私は彼の護衛用ギフテッドなのだから)

「シグ」

 ひし、と子供のように抱きついて、クウヤがシグの名を呼んだ。

「はい」
「今日は一緒に寝よう。……寝てくれるか?」
「ええ、もちろんです、マスター」

 寝支度を済ませ、元は仕事部屋であったシグの部屋で、ともに眠る。
 やはり疲れているのであろう、クウヤはシグの胸に顔を寄せると、すぐに寝入ってしまった。
 その安らかな寝息を聞きながら、考える。
 不安にさせたい訳ではない。ましてや、困らせる気など毛頭なかった。

『重く、大きく、煩わしく思われるかもしれません』

 かつて、彼への気持ちをそう表したのを思い出す。

『思わない。……そんなこと、言うな』

 そう言って抱きしめてくれた彼の気持ちを、疑うつもりはない。だが、靄のような感情が頭に立ちこめて、寝つけそうになかった。

(本当に、感情と言うものは手に余る)

 腕をクウヤの背へそっと回し、抱き寄せる。深く眠っているのだろう、クウヤは起きる素振りもなく、シグの腕の中で目をつむっている。

(……マスター)

 指先でそっと頬骨の辺りに触れる。次いで艶やかな前髪と、はっとするほど長い睫毛をくすぐるように触れても、彼のような穏やかな眠りは訪れそうにない。

(私は……)

 漠然としたものに心を覆われながら、やたらに冴えてしまった頭を落ち着かせようと、シグは大きく息を吐いたのであった。

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