※このページは部分抜粋のサンプルです
男がぐい、と力強くカミーユの手首を掴む。走る痛みに身をよじらせると、男は顔を寄せ、吐き捨てた。
「どうせお前みたいな化け物、どこへ行ったって幸せになれるものか!」
「……」
そこまで言って満足したのか、男は掴んだ時と同じくらいの唐突さでカミーユを解放した。
勢いよくドアを開け、去っていく後ろ姿から目を逸らし、手首をさする。すぐに離してくれたこともあり、跡が残ることはなさそうであったが、痛みはずきずきと後を引いていた。
「馬鹿みたい……」
バン、と大きく鳴ったドアの音が耳にこびりついてうるさい。
数度の情交で図に乗る男も、そんな男に化け物呼ばわりされなければならぬ己の立場も、なんとくだらないものか。
細く長い溜め息を吐いて、部屋を出る。身じろぎのせいで肩からずり落ちかけていたショールを直しながら数歩進むと、前方から落ち着き払った声が投げかけられた。
「多情は身を滅ぼすぞ」
「……ロジェ」
振り返ると、書斎のドアに背を預けたロジェがそこにいた。
「あの男は解雇する。だが……」
「うるさいな、今はお説教聞きたくない」
「カミーユ」
ロジェが短く己を呼ぶ。
いつもならば胸を高鳴らせるそれも、今は嬉しくなかった。
「僕は」
俯き、敷き詰められた木板の細い隙間に落とすように呟く。
「……僕はなんのつもりもなかった」
組んでいた腕をほどいて、ロジェが嘆息した。
「お前はそう思っていても、あちらはそうではなかったようだがな」
「そんなの、勝手に勘違いしただけでしょう?」
顔を上げたカミーユの睨みを肩を竦めることで流し、ロジェは大広間へ続く細い階段へと向かった。
もはやフロアへ出る気分などとうに失せていたが、言い足りなくて後を追う。
「だいたい、多情だなんて……」
細い階段を下りると、二階にいた時にはうっすらとしか感じなかった客の気配が濃くなった。アルコールや煙草の香り、それから人々がひそひそと話す、いくつものざわめき。
ただ、その中に一つ、慣れぬ気配があった。
気配と言うより、においと表した方が正しいか。一階へ降り立った瞬間に、様々な酒のにおいの合間から、ふわりと際立って薫るものがある。
なんとも形容しがたいにおいであった。
甘く、花のにおいのようにも感じられたが、それとは少し異なっている。微かに蒸留酒のようなスモーキーな香りもするが、酒ともまた違っているように思えた。
無意識のうちに、こくりと唾液を飲み下していた。その直後、頭に浮かんだ考えに、カミーユは思わず口を覆う。
「どの客だ」
隣に立っていたロジェが、静かに問う。ぶんぶんと首を振って、カミーユは震える声でなんとか拒絶の言葉を絞り出した。
「言いたく、ない」
背を押してくる衝動の強さのあまり、ただ首を横に振ることすらつらい。
激しく鼓動を打つ胸を押さえようと、胸元に垂れたショールを掴む。下のシャツの布地ごと強く握っても、動悸は一向に治まらなかった。
「言え」
は、は、と荒い息を吐くカミーユの腕を、ロジェの小さな手が強く掴む。
「……嫌だ!」
震えていたが、大きな声が出た。
カミーユの出した声は喧噪にかき消されたようで、幸い、咎める者は誰もいなかった。
一瞬しか見なかったが、反対側の壁沿いの豪奢なソファーに座り、女性吸血鬼の酌を受けている男。多分、彼が「そう」だ。
沸き立つように浮かんだ一つの欲が、頭にこびりついて離れない。
あの男の血を吸いたい。噛みついて、牙を立てて、溢れ出た血を啜りたい――。
ふらつく体を壁に押しつけるように寄りかからせながら、カミーユは再び喉を鳴らして俯いた。
いつかの予想は、あながち間違っていなかった。
今まで味わったことのない、初めての吸血衝動――。
それは、突き落とされる感覚に似ていた。
◆
「……ロジェは、どうしてこんなことするの」
思わず口をついて出た問いは、ひどく根本的なものであった。
「こんなこと、とは?」
「吸血鬼を一所に集めて、客を取らせて、それで相性のいい人間が見つかったら押しつけて……」
言っているうちに、腹の中の重い感覚がぐるぐると内臓を巡る。
気持ちが悪い。つらい。これまで溜め込んだ小さなものを、なにもかも吐き出してしまいそうだった。
「それが役目だからだ」
「……役目?」
返された言葉は、意外なものだった。
誰に与えられたものなのだ、なぜその人物はクラブの運営をやれと言ったのだ。
しかし、湧いた疑問よりも胸をつく衝動に、カミーユはきっとロジェを見据えて唇を開く。
「役目だから、僕を人に抱かせて、相性がいい人間が見つかったら、今度はその人のものにさせるの!?」
「それがお前たちのためだからだ。お前たちが幸福に……」
「……吸血鬼のため? そんなの違う! 全然嬉しくない!」
続けようとした言葉を遮って、カミーユはきっぱりと言い返した。
どうしてそんなことを言うのだ。聞きたいのは、言って欲しいのはそんな言葉じゃない。
「吸血鬼の幸福ってなに? そんなものじゃなくて、『僕』の幸福を考えてよ……!」
声を引き絞るように言ってから、カミーユは自分の言ったことにはっとしていた。
気がついてしまった。
彼の全てが気になる理由も、彼に構われたかった訳も。
(ああ、なんだ、こんな簡単なこと)
気づいてしまうと、どうしようもなくむなしかった。
この想いは絶対に叶わないこともまた、同時に分かってしまったからだ。
「……ねぇ、ロジェ」
縋りつきたい気持ちを抑え、代わりに自らの細腕を抱きながら、カミーユは小さな声を投げかける。
「なんだ」
「……僕のこと、大事?」
なにを言うのやらとでも言いたげに一瞬だけ眉をしかめて、ロジェはひたとカミーユを見つめ、静かにこう返した。
「当然だ。今ここにいる吸血鬼も、そして契約して出て行った吸血鬼も、全て等しくこのクラブの宝だ」
「……うん」
それでこそロジェだ、と思う反面、やはり胸にくるものがあった。
どうしたって叶わない。揺るがない彼には、付け入る隙も、寄り添う余地もないのだ。
曖昧だった感情が形を得た瞬間、粉々に砕け散ったようだった。人はこれを、失恋と呼ぶのだろうか。
(だとしたら、なんて甘美な)
◆
男の大きな手が、思わせぶりな手つきでカミーユを引き寄せた。
「腹が減っていないか?」
「あ……」
馬車で二人きりになっていた時もそうだが、こうして近くに寄られると、男の体の内側から血のにおいが立ち上ってくる。強い芳香にくらりと目がくらんだ瞬間を見逃さず、男はカミーユの細腰を支え、耳元へ吐息混じりの声を吹き込んだ。
「血を吸いたいだろう?」
「っ……!」
腰を掴んでいた手が腹に回り、撫でさすられる。ふらつく体を一人で眠るにはいささか広いベッドへ押しつけると、ベルナールは首を覆っているタイを引き抜き、襟をくつろげた。
「ほら」
「あぁっ……!」
体がわななく。
ベルナールの大きな手がカミーユの後頭部を引き寄せ、自らの首筋に鼻先を埋めさせる。
怖い。血を吸うために人の体に噛みついたことなど、一度もないのだ。それなのに、唇はひとりでに開き、体同様に震える牙が、意思とは無関係にその首筋へとめり込んでいく。
「ぐうっ……!」
耳元で聞こえたうめき声とともに口腔へ流れ込んできた温かなものに、カミーユは指先まで震わせて陶然とした。
美味しい。鼻まで漂う芳しいにおい以上に、口の中に広がる香りは強く、甘かった。
舌に弾かれたぷたぷと躍る血の感触は言いようのないほど心地よく、味は塩辛さよりも甘さが立った。
「ん、んん……」
血を啜りながら漏れた吐息は、恍惚によるものであった。
初めて吸う人間の血は、味わっているだけで体がさざ波を立てた。それは、情交のさなか、体の内側を擦られて絶頂へと引き上げられる時の感覚にも似ていた。
叶うのであれば、飽きるまでずっと、これを味わっていたい。肌にあますところなく牙を立てて、とろとろと溢れ出る甘露を吸いきってしまいたい。
ベルナールの手によってもたらされた吸血行為は、始まった時と同様に、彼の手によって終わりを告げた。
ぐい、と強く引き剥がされる。唇と舌を押しつけていたせいだろう、唾液の透明な糸が、つうと首筋とカミーユの唇を繋ぎ、ほどけた。
「やれやれ、そんなに美味かったのか? 先ほどまで澄ましていたくせに、随分な変わりようじゃないか」
「あ……」
離れたベルナールの首筋は、血で赤く染まっていた。
今更ながらに、彼の血を吸ったのだと理解して、血を得たばかりの顔からさっと血の気が引いた。
なんと言うことだろう。なんと恐ろしく、おぞましいことをしてしまったのだ、自分は。
首筋から伝う血を指先で拭ったかと思うと、ベルナールはそのまま指の腹をカミーユの唇にあてがい、ルージュを塗るように引いた。
「流石は吸血鬼だ。よく似合っているよ、カミーユ」
「あ、あ……」
ふ、と嗜虐的な笑みを伴いながらの言葉に、カミーユはベッドへ横たわらせていた体を弛緩させ、小さく喘いだ。
だめだ。なにも考えられない。
これまで家畜の血しか吸ったことのないカミーユにとって、相性のいい人間の生き血は、いっそ毒と言ってもよかった。これまで味わった全てのものを塗り替え、頭からは思考と冷静さを、そして体からは自由を奪っていった。
(こんな――こんなにも――)
こんなもの、あんまりだ。初めてベルナールの気配を感じた時のことなど、比べ物にならなかった。それほどに、流れる温かな血は、圧倒的な力でもってカミーユを征服した。
(こんなもの、抗えっこないじゃないか……)
瞬きとともに目尻を伝っていったものを見て、ベルナールが再び笑う。
「泣くほど美味かったのか?」
言われ、反射的に顔を手で覆いながら、カミーユは一度だけ、吐息混じりの嗚咽を零した。
こんなものが運命だなんて。
◆
それからまたしばらくの月日が経って、分かったことが増えた。
ベルナール・サヴォアには貞操と言う観念が欠如していること。
それから、妻であるジョゼット・サヴォアもまた、そうであること。
三人でクラブを訪れてから数日、ベルナールに抱かれているさなか、カミーユの部屋のドアを叩く者があった。ジョゼットであった。
突然のことに狼狽するカミーユをよそに、ベルナールは部屋に彼女を招き入れ、彼女が見ている前でカミーユのうちへ情を吐き出した。
抱かれているカミーユを見て、ジョゼットはうっとりと言った。可愛い。綺麗だわ。そうして彼女は、当然のようにその「遊び」に混ざり始めた。
ベルナールは、ジョゼットを抱くカミーユを見ているだけの時もあれば、慣れぬ女の相手をしているカミーユに手を出し、そのまま三人で交わることすらあった。ジョゼットの服をカミーユに纏わせ、彼女の前で抱かれたことだってあった。
最初のうちこそ狂っている、と彼らを嫌悪したカミーユであったが、同じようなことが数度続くと、どうでもよくなってしまった。
いつかの日、ロジェが言った言葉を思い出したのだ。クラブの会員権を得るような人間に、まともな人間はいない。
ぎしぎしとベッドが微かに軋む音がする。
大きく、質のいいベッドでも揺れる時は多少なりとも音がするものなのだな、とぼんやり考えていると、ベッドの脇に置いた椅子に腰かけたベルナールが、ゆらりと立ち上がった。
懐から出された小型ナイフの刃が、引っ掻くように男の手の甲に傷をつける。じきにじわりと浮いてきた赤いものの香りと鮮やかさに、ジョゼットとの行為中であるにもかかわらず、カミーユの視線は釘付けになった。
「ほら」
ベッドに横たわり、ジョゼットのするがままに任せているカミーユの顔のすぐそばへ、ベルナールが手をかざす。
「ん……」
意識しないうちから、舌が伸びていた。空いている手でベルナールの手首を引き寄せ、じわじわと滲む血を一滴もむだにせぬよう、啜る。
「っ、は……」
血の香りと味は、今行われている情交よりも、カミーユを陶然とさせた。
それが表情に出ているのであろう、ベルナールが愉快そうに口の端を持ち上げる。
「ねぇカミーユ、私のことも噛んでみせて」
腹の上にいるジョゼットが囁いた言葉に、カミーユはぎくりと体を強張らせた。
(吸う? ベルナール以外の血を?)
ほら、と首を差し出すように前屈みになった彼女の肩を、とんと押す。ゆるりとかぶりを振って、カミーユは荒くなった吐息混じりの声で、無理、と返した。
考えたこともなかった。そう言えば、クラブ――ロジェからは、「相性のいい人間からしか血を吸うことは出来ない」としか教えられていない。
だが、吸いたいとも、そして吸えるとも思えなかった。これまでだって、クラブに客として訪れる人間を見たって、見境なく血を吸いたいと思ったことなどなかった。
「無理、だよ、ジョゼット……あんたからは、吸えない」
カミーユの唇を押し開き、指を差し入れようとするジョゼットに、カミーユは小さな子供のように幾度も首を振った。本当に、気が向かないなんて程度ではなく、無理なのだ。
「ベルナールからは吸えるのに?」
カミーユの態度がお気に召さなかったのだろう、むっとした口調でジョゼットが言う。二人の行為を眺めながら酒を呷っていたベルナールが、低く笑った。
「そう言う風に出来ているんだ、こいつらは。そうだろう? カミーユ」
「……そうだよ」
どうしてそうなのか、なんてこれまで一度も考えたことがなかったが、とにかく吸えないものは吸えないのだ。
「あら、そう」
そう言って、ジョゼットがほんの少しだけ目を細めた、ように見えた。
女が、身をよじらせるように体を動かす。たちまちに思考に霧がかかって、考えようとした事柄は散り散りになる。
どうして、なぜ。破片となった言葉はすぐに思い出せなくなって、ただ、一瞬だけ目をすがめたジョゼットの瞳の深緑だけが、溶け残ったように瞼の裏に色を残していた。